こんにちは!yurinです。
景行天皇と稲美姫の間には、大碓命、小碓命という双子が誕生しました。
『日本書紀』は、この大碓・小碓二人の子のほか、もう一人稚倭根子(わかやまとねこ)という皇子が生まれたとする別伝も紹介しています。
一方『古事記』は、櫛角別(くしつのわけ)王、倭根子(やまとねこ)命、神櫛(かむくし)王の三人の子が生まれたと記しています。
お二人はたいそうな子宝に恵まれました。
皇子だけが記されていますが、もしかすると皇女がいらっしゃったかもしれません。
日本武尊の同母の兄弟たち
景行天皇の皇子皇女について『先代旧事本紀』は、
この天皇からお生まれになった皇子皇女は全て81人、そのうち皇子は55人、皇女は26人。この中で皇子5人、皇女1人を宮中へ留め、それ以外の皇子50人、皇女26人、合わせて76人はそれぞれ国・県(あがた)にご委任なされた。国史には入れない
とあります。
景行天皇の皇子の中で、正式に御子に定めたのは次の6人でした。
- 大碓命(おおうすのみこと)
- 日本武尊(やまとたけるのみこと)
- 豊国別命(とよくにわけのみこと)
- 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと=後の第13代成務天皇)
- 五百城入彦命(いおきいりひこのみこと)
- 五百野姫皇女(いおのひめのひめみこ)
6人を除いた70余人の皇子皇女は、みなそれぞれ国や郡に封じられて地方に赴いたとされます。
景行天皇が、大碓命と小碓命を大切にしていたことがわかります。
二人の皇子は、さらに多くの御子に恵まれて、後の第26代継体天皇の系譜にもつながっているとする説もあります。
優しく気の弱い大碓命(おおうすのみこと)の身代わりに東征
『古事記』で、景行天皇の命に従わない大碓命を、日本武尊が殺めてしまったように記されます。
一方で美濃や愛知の伝承の大碓命は、日本武尊よりも長生きで、子孫も残しています。
『古事記』『日本書紀』は、しばしば「中央政権から抹殺した」という意味の表現をしますが、実際は、地方で生存し子孫が残っている場合が多いようです。
中央の史書と地方の伝承を総合すると、日本武尊は、気の弱い兄の大碓命の身代わりになって東征したといえるかもしれません。
兄をかばう温かい人柄や兄弟の絆を感じます。
大和朝廷の草創期は、むしろ兄弟の中で年長者が遠国に遠征している例がほとんどですから。
本来は、大碓命こそ東国へ遠征すべき人物でした。
そして大碓命は、父が所望した女性を差し出さずに横取り!したように書かれています。
ですが、むしろ現地の女性は、はるばる故郷を離れて大和へ赴くなど、心細く躊躇(ちゅうちょ)したかもしれません。
それを見かねて、心優しい大碓命が妻にしたのではないでしょうか。
大碓命も小碓命も、それぞれ人情味あふれた側面がうかがわれるのです。
こうした性格は、母の情感を受け継いだように思われます。