景行天皇と稲美姫の仲をとりもった息長(おきなが)氏

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こんにちは!yurinです。

こちらの記事のつづきです。

稲美姫と結ばれた景行天皇ですが、仲人をしたのが伊志治(いしじ)でした。

伊志治とは、息長命(おきながのみこと)のことです。

結婚の仲立ちをした息長命(おきながのみこと)

大帯日子命(おおたらしひこのみこと、後の景行天皇)と稲美姫の仲立ちをした伊志治(いしじ)は、その功績により「大中(おおなかの)伊志治」と呼ばれるようになりました!

大きなご縁をとりもってくれた伊志治を讃(たた)えたのです。

 

伊志治は息長氏ですが、息長(おきなが)氏はもと近江国坂田郡(滋賀県米原市息長)を本拠とした古代豪族です。

一族で有名な神功皇后は、本名を息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)といわれますが、その父系が息長氏だからです。

神功皇后

画:川崎日香浬氏

息長氏は、第9代開化天皇から出た氏族ですが、天照大神の第5子の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫の凡河内(おおしこうち)氏との関係も考えられます。

 

『古事記』『先代旧事本紀』から、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の子孫に「凡河内の国造(くにみやつこ)」の記述があります。

「凡河内(おおしこうち)」は大阪湾一帯の広範囲の総称です。

琵琶湖から淀川水系、大阪湾一帯の水運を担う息長氏の活躍は、『播磨国風土記』からも裏付けられるものです。

 

『古事記』『先代旧事本紀』『播磨国風土記』は見事に、補い合いコラボしています!

『播磨国風土記』には神功皇后もしばしば登場します。

先祖がこの地方に縁があったからでしょう。

ちなみに神功皇后は、景行天皇にとって、御子の日本武尊の子、すなわち孫の仲哀天皇のお嫁さんにあたります。

……それはこの物語のさらに先の話しになります^^

……

 

こうして息長命の仲立ちで、稲美姫をつれ帰った景行天皇は、加古川河口にあった印南の六継(むつぎ)の村に帰ってきました。

この村で、二人ははじめて結ばれたのでした。

城宮(加古川市加古川町木村)にお遷りになり、そこではじめて婚姻の儀をあげられました。

大和~吉備~出雲につながるご縁

その後、伊志治(いしじ)は稲美姫の寝室の床掃(とこはらえ)に奉仕した、出雲臣比良売(いずものおみひすらめ)を妻として賜ったのです。

「息長命の墓は、賀古の駅の西にある」とまで伝えられますから、ご縁をとりもってくれた人物を、終生大切にして、その死後も手厚く葬ったものとみられます。

 

出雲臣比良売(いずものおみひすらめ)とは、もちろん古代における大豪族であった出雲氏につらなる女性とみられます。

稲美姫の母方が、出雲に連なる系譜の可能性もあります。

 

『播磨国風土記』を読むと、出雲の大国主命も「大汝命(おおなむちのみこと)」として、しばしば登場します。

この地方にまで勢力を拡張していたことがうかがわれるのです。

景行天皇と播磨稲日大郎女が結ばれることは、天皇家が結束を固め、出雲氏族とも結ばれるという二重三重にもおめでたいできごとであったのでしょう。

平和な夫婦栄えの象徴「高砂」と「相生(あいおい)の松」

数年前、共著で日本武尊の本を書いていた時、日本画家の川崎日香浬先生と、この逸話について語り合いました。

その時、

「それで“高砂”があるんですね」

と指摘されて、あっと気づきました!

確かに謡曲『高砂』で名高い高砂神社は、景行天皇と稲美姫のお二人ゆかりの印南毗(いなび)の島があったと伝えられる地なのです!

 

高砂神社は、神功皇后が凱旋の時に「鹿子水門(かこのみなと)」(加古川の河口付近)に、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主命)の加護を感謝してお祭りしたのが創祀とされます。

 

名高い「相生(あいおい)の松」は、一つの根株から、雌雄の枝が左右に分かれて枝葉が茂っています。

江戸時代には、参勤交代中の諸大名や江戸へ移る姫君たちが、この上なく縁起良く珍しい雌雄の松の見物に立ち寄ったとされます。

 

私たちの先祖は、このような特別な自然現象を大切にしてきました。

国の天然記念物に指定されて後、枯れてしまったものの、五代目の相生(あいおい)の松が栄えています。

 

伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘諾冉(いざなみのみこと)の二神の神霊が宿るとの伝えもあるほど、平和な夫婦の栄えと、長寿の祈りを象徴した霊木として信仰されたのです。

結婚を祝う「高砂」のルーツ?

相生の松は、能と謡曲の『高砂』の舞台の一つになっています。

「高砂」はドラマや時代劇の結婚式で歌われますね。室町時代に能を完成させた世阿弥の作とされます。

 

高砂や この浦舟に 帆を上げて 月もろともに 

出汐(いでしお)の 波の淡路の 島影や 遠く鳴尾の 

沖過ぎて はやすみのえに 着きにけり 

はやすみのえに 着きにけり

 

確かに、日香浬先生のおっしゃるように、この高砂の地に、景行天皇と播磨の稲美姫の伝承があるのは、偶然のようには思えなくなります。

お二人の逸話が語り継がれるとともに、相生(あいおい)の松の伝説も生まれたのではないでしょうか?

 

日本武尊の父と母が結ばれる、まさしくその地に、おめでたくも“謡曲高砂”“相生の松”“尾上の松”があるのもことは、この上なくすばらしく微笑ましいです(大拍手)!

こういう話しを知った時、歴史を勉強していて良かった!と、心から思えます。

 

以前にこの地を訪れた時に、日本武尊の父母の物語と高砂の関係に気づきませんでしたし、有名な高砂神社を参拝しないまま戻ってきてしまいました……(大泣)

ぜひとももう一度、の地は、増える一方なのです(大汗)

「た~~か~~さ~~ご~~や~~」の歌謡を、いつかどこかで耳にする時に、今までと違った感情がおとずれそうです^^

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