こんにちは!yurinです。
継体天皇は子宝にも恵まれていました。
妃と21人の皇子皇女たち
継体天皇の皇后は、第24代仁賢天皇の皇女の手白香皇女(たしらかのひめみこ)でした。
手白香皇女の弟の第25代武烈天皇は皇子がおられずに崩御されてしまいました。
それで天皇家の血筋をひく男大迹王(おおどおう、継体天皇)を、はるばる越(こし)からお迎えになり、結婚されたのです。
やがて一人の皇子がお生まれになりました。後の第29代欽明天皇です。
欽明天皇は嫡子(世継ぎ)とされましたが、父の継体天皇崩御の時、まだ幼かったので、二人の兄君たちが国政を執られた後に、天下をお治めになられました。
兄の第27代安閑天皇、次に弟の第28代宣化天皇です。
実は継体天皇には、大和へ来られて、手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とする前に、すでに複数の妃、御子たちがいらっしゃいました。
『日本書紀』は「その8人の妃を、良き日を選んで召し入れた」と記します。
8人の妃を召し入れるのは、前例がないわけではないが……天つ日嗣(ふつぎ)を継がれて天皇に即位なされた上で、良き日を占わせて選び、初めて後宮(きさき)を定められた。それで正式に記録した。
継体天皇像
その妃と皇子皇女は以下の通りです。
・尾張連草香(おわりのむらじのくさか)の娘……目子媛(めのこひめ) |
勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、第27代安閑天皇) 檜隈高田皇子(ひのくまたかだのみこ、第28代宣化天皇) |
・三尾の角折君(つのおりのきみ)の妹……稚子媛(わかこひめ) |
大郎皇子(おおいらつこのみこ) 出雲皇女(いずものひめみこ) |
・坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘……広媛(ひろひめ) |
神前皇女(かんざきのひめみこ) 茨田皇女(まんだのひめみこ) 馬来田皇女(うまくたのひめみこ) |
・息長真手王(おきながまてのおおきみ)の娘……麻績娘子(おみのいらつめ) |
荳角皇女(ささげのひめみこ) →伊勢神宮の斎宮(いつきのみや) |
・茨田(まんだ)の連(むらじ)の小望(おもち)の娘……関媛(せきひめ) |
茨田大娘皇女(まんだのおおいらつめのひめにこ) 白坂活日姫皇女(しらさかいくひひめのひめみこ) 小野稚娘皇女(おののわきいらつめのひめみこ) |
・三尾君堅楲(みおのきみかたかい)の娘……倭姫(やまとひめ) |
大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ) 椀子皇子(まりこのひめみこ) 耳皇子(みみのみこ) 赤姫皇女(あかひめのひめみこ) |
・和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘……荑姫(はえひめ) |
稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ) 円娘皇女(つぶらいらつめのひめみこ) 厚皇子(あつのみこ) |
・根王(ねのみこ)の娘……広媛(ひろひめ) |
菟皇子(うさぎのみこ) 中皇子(なかのみこ) |
以上の他に、さらに手白香皇女の皇子を入れると9人の皇子と12人の皇女です。
継体天皇は、子宝にも恵まれていらっしゃいました(大拍手)
さまざまな氏族の思いがつまった即位
継体天皇の妃の出身地をみると、琵琶湖から淀川水系の地域に勢力を広げる「息長(おきなが)氏」の一族が目立ちます。
有名な神功皇后の一族です。
さらに東国の入り口の要衝地を掌握するのが「尾張氏」です。
第5代孝昭天皇妃を輩出し、日本武尊の妃として有名な宮簀媛(みやずひめ)も尾張氏です。
妃にみえる和珥氏(わにし)は、孝昭天皇の後裔氏族です。
さらに第15代応神天皇の皇妃には、尾張氏の血筋が濃厚でした。
さらに第11代垂仁天皇の皇子の子孫の「三尾氏(みおし)」も、琵琶湖から北陸方面に勢力を広げているようです。
こうしてみると、継体天皇は、畿内から北陸にかけて広がる、天皇家の子孫たちを背景に、東国の勢力までも支持を受けて、大きな勢力を保持していたことが察せられるのです。
8人の妃と皇子皇女たちが、いっきょに大和へ入ってきたのですから、これはもう大変な華やかな出来事だったと思われます^^
継体天皇「花がたみ」の像 味真野苑(越前市)