こんにちは!yurinです。
日本海の越(こし)の国への旅に出ていました。
その間に、故郷の千葉県の市原がチバニアンになるとかならないとか……(汗)?
まずは越(こし)の方々と触れ合い、導かれて大きな感動をいただいたのでこちらから。
高い山々の新雪に、山麓の紅葉が映えて、季節の移ろいが実に美しかったです。
越(こし)から筑紫(つくし)までの、日本海文化圏の広域な交流、継体天皇を輩出した越の国の底力を考える旅です。
戦国の雄上杉謙信を生み出した豪雪地帯
新幹線の上越妙高駅に、郷土史家・土田孝雄先生と上越市の日本画家・川崎日香浬(ひかり)先生がお迎えにきてくださいました。
土田先生とは2年ぶり、日香浬先生とは1年半ぶりの再会です(涙)!
人生を続けているとこんな日もあるものかしら……夢かうつつかみたいな……。
土田先生はますますお元気そうで、しっとり和服の日香浬先生も懐かしいお姿です。
……そして上越といえば、なんといっても戦国の雄、憧れの上杉謙信公までお出迎えくださいます。
立派な銅像が駅前にありました。
この地から、上越国境の峠を越えて、関東平野に攻め寄せて、ついには10万ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲するのですから、たいしたものですよね。
上越平野を南下した信濃川の川中島では、北上する武田軍を撃退し、西方では越中を越えて加賀の手取川で、北上する織田軍を撃退。
と思えば、その間に1500人とも5000人ともいわれる少数精鋭で、二度も上洛して、正親町(おおぎまち)天皇や将軍足利義輝に拝謁しているのです。
まさに獅子奮迅の働きで「越の国の王者」として、今もなお天下に名をとどろかせているのです(拍手)
「豪雪」というのは、人々の心と体を鍛えて、とてつもないパワーを生み出すのでしょうか。
「雪は大変ですけど、守られていることもあるんです」
とは、日本画家の日香浬先生。
なるほど、雪のないところで生まれ育った私には、決して踏み込めない「聖域」のようにも思えてきます。
過去に「雪」に阻まれて撤退を余儀なくされた、ひ弱な南国育ちの人々もたくさんいたのでしょう(大汗)
天皇名・将軍名になる「神ヌナカワ」
国境の山々の雪解け水に潤されて、日本一の米どころでもあります。
「こしひかり」は日香浬(ひかり)先生のお名前にもなっています。
長野方面から霊山黒姫山(2053m)を過ぎ、名高い妙高山(2454m)を仰ぎます。
「黒姫」は奴奈川姫(ぬなかわひめ)とも、姫の母神とも言われます。
さらに黒姫山は、この長野県上水内(「みのち」郡信濃町の山のほかに、新潟県糸魚川市の黒姫山(1221m)、同じ新潟県柏崎市の黒姫山(891m)があります。
この3つの山に囲まれた地域で、特に奴奈川姫の信仰が深いようです。
海音寺潮五郎氏の『天と地と』では、川中島合戦を終え、婚約者の訃報に接して、妙高山麓で立ちつくす、孤高の謙信の雄姿で終わります。
果てしなく続く天と地の間に立っていた。悠々と雲の流れる青い空。
と。
なので、このお山を眺めると、いつもそのラストのフレーズを思い出します。
富士山タイプの山容と雄大な裾野です。
上越平野は、新潟県の中でも京都へ近い方の南西部にあって、上越市には謙信が居城にした有名な春日山城があります。
古代からこの地方は栄えて、国府が置かれ、国分寺もあります。
『先代旧事本紀』には景行天皇の妃の中に「阿倍氏の木事(こごと)の娘、高田媛」が見えます。
「武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)」が生まれて「筑紫の水間(みぬま)の君の先祖」になったとあります。
徳川家康の六男の松平忠輝の居城の高田城が築かれました。
明治になって県庁所在地が新潟へ移るまで、越後の政治経済の中心でした。
上越平野は、高田平野・頸城(くびき)平野とも呼ばれます。
さらに古くはヒスイの女神がいらっしゃる「奴奈川(ぬなかわ=沼河・渟名川)の国」でもありました。
当初には「ヌナカワ」は、ヒスイの原産地の糸魚川市付近、姫川流域の呼称と思っていたのですが、どうしてどうして、お二人の先生のお話しをお伺いしてみると「ヌナカワ」の範囲はさらに広がっています。
この上越平野が尽きて山を越えた信濃川流域の十日町方面までも「奴奈川(ぬなかわ)」は広がっていたのです。
さすがに第二代の天皇名になっているだけの重みがある地名です。
天皇のお名前に地方名が入っているのは「ヌナカワ」のみ。
さらに「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)」と、「神」がつくのも初代の神武天皇の「神日本磐余彦尊(かみやまといわれびこのみこと)」のお二人だけです。
第10代崇神天皇や第15代応神天皇の「神」は、平安時代の淡海三船(おうみのみふね)による漢風のおくり名です。
もともとの『古事記』『日本書紀』に記された天皇のお名前に「神」が入るのは、神武天皇と第2代綏靖天皇だけです。
これはスゴイことで、新潟県の方々は実に誇るべきことです!
因みに第3代の安寧天皇は「磯城津彦玉手看尊(しきつひこのたまでみのみこと)」ですが、「磯城(しき)」は三輪山に象徴される「出雲」を感じさせるお名前ですが、確実に大和の地名です。
さらに「ヌナカワ」は将軍名にもなっています!
『日本書紀』の第10代崇神天皇の時代に派遣された四道将軍は、
大彦命 → 北陸
武渟川別(たけぬなかわわけ)→東海
西道 → 吉備津彦
丹波 → 丹波道主命
この中で大彦命と武渟川別(たけぬなかわわけ)は「親子」です。
「ヌナカワ」は、丹波(山陰)・吉備(山陽)と並んで大地名であったことが理解できます。
奴奈川の国には数々の遺跡が・・・!
この上越平野、古代の「奴奈川(ぬなかわ)の国」には、弥生時代や古墳時代の複数の国指定史跡があります。
これもスバラシイことですね!
妙高山麓から北側に伸びる南葉山の麓にあるゆるやかな傾斜地に、
弥生のヒスイの勾玉が盛んにつくられた「吹上(ふきあげ)遺跡」
標高の上がる丘陵上の高地性環濠集落の「斐太(ひだ)遺跡」
大きな水濠に囲まれた「釜蓋(かまぶた)遺跡」
があります。
その3つを総称して、ヒスイの玉作りの関連性が高いことから、「斐太(ひだ)遺跡群」として国指定史跡になっています。
JR北陸新幹線の上越妙高駅を降りると、そこにはすぐ国指定の「釜蓋遺跡」が広がっています。
弥生時代終末から古墳時代はじめの川と環濠に囲まれた大規模な集落遺跡です。
まさに『魏志倭人伝』の邪馬台国が、『古事記』『日本書紀』では大和朝廷が、いよいよ全国展開する草創期にあたる時期の遺跡です。
弥生のヒスイの勾玉は、北部九州に集中していますが、まさにこの地で製作された玉類が運ばれているわけです。
弥生時代のダイナミックな人々の動きが浮かんできます。
有難くも上越市教育委員会の釜蓋遺跡ガイダンスにいらっしゃる小島幸雄先生から、吹上遺跡にご案内いただきお話しをお伺いすることができました(拝)。
これほどの先生方とごいっしょに有名な弥生遺跡を巡れまして、目まいがしてしまいそうでした(汗)
北陸・新潟県内では、14×12mという最大級の竪穴住居が発見されたのは、今年の7月です。
全国的にも珍しく、石川県の能登半島で13m四方の建物跡が見つかっているとのこと。
上越地域の中心にあったと考えられています。
なにしろ奈良県のように、国からの巨額な発掘費用と労力をかけて、発掘作業をしたわけではないのです。
2005年以降に、たまたま新幹線工事や道路の工事をしたのを始まりに、次々と遺跡が発掘されたのですから(汗)
釜蓋遺跡では、新幹線の線路のすぐ横で、発掘作業をされている方を目にします。
今日も小ぶりで精巧な高坏が発掘されていました。
釜蓋遺跡資料館は2度目ですが、玉作りとともに広範な地域との交流を示唆して、国指定史跡になるのもナットクの、発掘品の数々です。
つづく