越の国の旅「ヌナカワ」という地名が広げてくれる古代の世界のつづきです。
弥生のヒスイ勾玉作りの吹上遺跡(新潟県上越市)
平成20年に国指定史跡になった吹上遺跡の掲示板には、謙虚(!)でありながら興味深いことが。
吹上遺跡は、弥生時代中頃(約2200年前)に大規模に行われた玉作りが特徴の遺跡で、ヒスイ製勾玉の生産量は、全国でも有数の規模を誇ります。
また、長野県や石川県をはじめ、各地の影響を受けた土器や、銅鐸をかたどった珍しい出土品もあり、遠隔地と盛んに交易を行っていたと考えられています。
吹上の集落は、規模などを変えながら古墳時代(約1700年前)まで、約500年もの長い間続いた地域の中核となる集落でした。
斐太遺跡群は、半径1.5kmの範囲に3つの拠点となる集落が集まっており、弥生時代から古墳時代にかけての地域社会の移りかわりを知ることができる貴重な遺跡です。
指定 文部科学省(太字は古代史日和にて)
「地域社会の移りかわりを知る」は、謙虚(!)すぎる表現で、まさに「日本国家成立の様相を示唆する大遺跡」なのでしょう(拍手)
ヒスイの勾玉というのは、神話の時代に天照大神や素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、やり取りし、『魏志倭人伝』では、倭国の特産品として魏王朝へ献上されています。
まさしくその時代の玉作りを担っていたのが、吹上遺跡の集落の職人たちだったのです。
勾玉製作資料
遺跡を案内してくださった上越市教育委員会の小島先生に、私が、
「弥生時代の中期とありますが、最近の畿内大和の古墳時代の年代はどんどん遡って古くなっていますが、ここの遺跡の弥生中期というのは大丈夫でしょうか?」
とお伺いすると、
「あ、歴博年代ね。こちらはしっかりこちらの年代でやっていますから。」
との頼もしいお言葉に、ナットクできることばかりでした。
※「歴博年代」とは、古墳や遺物の年代をどんどん古く持っていく歴博の必殺技(kaoriの解釈。カンタンな説明はこちらから)
さすがに越(こし)には、その自信を裏打ちするだけの出土品の重みと歴史があると実感します。
「この遺跡を作った人たちは、糸魚川からやってきて、糸魚川へ帰ったのか?いろいろ考えてみるんですよ」と、玉作り遺跡の終焉についてもお話してくださいました。
はるか30年前に、郷土史家の土田先生がヒスイのシンポジウムを始められた頃は、ヒスイ原産地の糸魚川には、縄文時代の玉作りの遺跡はあっても、弥生時代の玉作り遺跡は、まだ発見されていなかったのです。
「糸魚川に弥生時代の後生山遺跡が発見されたと聞いた時、うれしかったです!」と、土田先生に申し上げると、
「あの時は、飛び上がちゃったよ!」と笑っておられました(大拍手)!
「それに遠賀川式土器も出た、ってありまして、本当にうれしかったです!」
遠賀川式土器とヒスイの玉作りをする人々は、こうして結びつきが確認されたのです。
そしてヒスイの玉作りは広く大規模になって、糸魚川地方だけでなく上越地方に及んでいたのでした。
妙高市にも『魏志倭人伝』のヒナモリが!?
『魏志倭人伝』には、
「対馬国(つしまこく)に到る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という」
とあります。
「卑奴母離(ひなもり=夷守)」が置かれていたとあります。
他にも「一大国(いき国=壱岐国)」、「不弥国(うみ国)」に卑奴母離(ひなもり)が置かれていたことが書かれています。
この「ひなもり(夷守)」ですが、実はこの斐太遺跡のある妙高市にもなんと!「ひなもり」が置かれていたようなのです。
『和名類聚抄』(和名抄、931~938年)の越後国頸城(くびき)郡に「夷守(ひなもり)郷」があります。
現在の妙高市に「美守(ひだもり)」があり、かつて隣接する上越市に「美守(ひだもり)村」もあったのです。
まさしくこの斐太遺跡群のある地であり、斐太(ひだ)の地名は、『魏志倭人伝』時代の「ひなもり」の名残りの地名なのかもしませんね!
『魏志倭人伝』に記された、倭国の特産品の「青玉=ヒスイ」と「真珠」。
卑弥呼のあとを継いだ台与(とよ)が、魏国に献上したという「孔青大勾玉二枚(はなはなだ大きなヒスイの勾玉のついた首飾り二枚)。
その倭国の大切な神宝の、原産供給地に官吏が置かれているのはもっともです。
国境の要衝地の守備を任されていたと考えられています。
因みに「ひなもり」はその他の地域にも、記録や名残があります。
『延喜式』(923年)に日向国諸県(もろあがた)郡には「夷守(ひなもり)駅」が見えます。
この地はまさしく『日本書紀』の景行天皇の段に登場する、兄夷守(えひなもり)、弟夷守(おとひなもり)の由緒地です。
その他、旧不弥国の筑前国糟屋郡(糟屋郡粕屋町)にも「夷守駅」(『和名抄』)、現在の日守(ひもり)神社があります。
さらに『延喜式』神名帳に、「美濃国厚見郷」(岐阜市茜部本郷)に、比奈守(ひなもり)神社があります。
邪馬台国の及んでいた範囲はかなり広域のようです。
『先代旧事本紀』によれば、こうした地域には、大和朝廷の早い時期に、朝廷から派遣された「国造(くにのみやつこ)」が置かれていたこともわかります。
この地域の大和朝廷と関係する古墳群は、「夷守(ひなもり)」や「国造(くにのみやつこ)」とゆかりの古墳とみられます。
つづく