こんにちは!yurinです
週末に久しぶりの秋晴れが続きました。
秋は勉強の季節ですね。
日頃にまして古代史日和・古代史カフェ会のメンバーの皆さんは、活発に活動しているようです!
先日の古代史日和の勉強会では「斉明天皇の飛鳥から筑紫への遷都」がテーマでした。
目次
海洋民族の伝統を継承する大胆な遷都
皇室のご先祖の方々は、古くは天皇の代替わりごとに、宮を遷されていました。
定住型の農耕民族であるよりも、フレキシブルな海洋民族の伝統を継承しているようです。
さらには、ここぞという時にあたって、大胆に遷都なさいます。
(1)神武天皇
宮崎 → 筑紫岡田宮 → 大和橿原(かしはら)宮へ
岡田宮
(12)景行天皇
大和の纏向日代(まきむくのひしろ)宮 → 豊前の長狭(ながお)宮 → (南九州遠征) →大和の纏向 → 志賀の高穴穂(たかあなほ)宮
(14)仲哀天皇
角鹿(敦賀)の笥飯(気比)宮 → 紀伊の徳勒津(ところつ)宮 → 穴門(あなと)の豊浦(とゆら)宮 → 筑紫の橿日(かしひ)宮
気比神宮
(14)仲哀天皇后の神功皇后
筑紫の橿日宮 → 松峡(まつお)の宮 → (三韓遠征) → 穴門の豊浦宮 → 大和磐余(いわれ)の若桜(わかざくら)宮
松峡(まつお)の宮
(37)斉明天皇
難波の宮 → 伊予の石湯(いわゆ)行宮 → 筑紫の磐瀬(いわせ)行宮 → 朝倉橘広庭(あさくらのたちばなのひろにわ)宮
この中には、神武天皇の大和への東征、景行天皇・仲哀天皇の九州遠征、神功皇后の新羅・大和への遠征など、敵対勢力の平定のための遷都もありました。
明治天皇が京都から江戸へと遷都なさったのも、スゴイことですね!
海外の王朝には珍しいのではないでしょうか。
そして第37代斉明天皇は、女帝でありながら、初めて重祚(再び天皇の位につく)し、しかも筑紫への遷都を遂行したのです!
これについて田中卓先生は次のようにのべていらっしゃいます。
七世紀中葉に、斉明天皇が女帝の御身で、百済救援のため北九州にまで出陣されていることは有名だが、これは恐らく、神功皇后の故事にあやかる意図があられたのであろう。
(「神功皇后の“非実在説”批判」『田中卓著作集11神社と祭祀』)
なるほど、さすがナットクのご洞察です。
倭国の巫女的霊力の伝統で国難を乗り切る
660年、百済が唐・新羅により滅亡すると、人質として日本に滞在していた百済皇子の豊璋(ほうしょう)を百済に送りました。
援助を求めてきた友好国の百済救援のため、皇族方は率いる大船団とともに、大和から、はるばる筑紫への遷都へ旅立たれたのです。
斉明天皇は、なんと60代というご高齢でした!
これはスゴイことだと思います!
すでに立派に成人している皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の天智天皇)がいらっしゃいます。
……にもかかわらず、高齢の女帝の御身でありがらの重祚と遷都です。
斉明天皇の夫君、すなわち中大兄皇子(天智天皇)の父上の舒明天皇のお名前は「おきながたらしひろぬかのすめらみこと」です。
「おきなが」は母方の血筋に由来するものです。
斉明天皇は、舒明天皇の姪にあたります。
舒明天皇~斉明天皇~天智天皇には「息長(おきなが)」の血筋と誇りが流れています。
後に天智天皇が近江の大津に遷都するのも、息長氏の故地でホームグランドというべき場所が「琵琶湖や淀川水系」だからとみられます。
その皇室とゆかりの深い息長氏の系譜を秘めるからこそ、蘇我氏の専横に身の危険を感じ「乙巳(いっし)の変」によって、蘇我氏主家の命脈を断ったのでした。
斉明天皇と中大兄皇子の母子の心に宿るのは、息長足姫(おきながたらしひめ)=神功皇后三韓征伐の栄光であったのでしょう。
神功皇后と応神天皇のお姿です。
倭国の伝統ともいえる巫女的霊力を期待して、斉明天皇を推し立て、海外戦争に臨んだのではないでしょうか。
よほどの「勝つ」という決意と覚悟がなくて、海外との戦争に挑めるものではないのは、今も昔も同じです。
そして斉明天皇・中大兄皇子の心の支えとなっていたのは、まさに神功皇后だったのです!
航路の途中で大伯(おおく)皇女がお生まれになる
一行は難波を立ち、岡山県の邑久(おく)郡に寄港します。
『日本書紀』で、
御船(みふね)西に征(ゆ)きて、大伯(おおく)の海に到る。
時に、大田姫皇女(おおたのひめみこ)、女(ひめみこ)を産む。
よりてこの女(ひめみこ)を名づけて大伯皇女(おおくのひめみこ)という。
なんと中大兄皇子の弟の、大海人皇子(おおあまのおうじ=後の天武天皇)の妃の大田皇女は、臨月くらいになりながらも、この遷都に従い、出産したのでした!
大田皇女は中大兄皇子の皇女です。
大田皇女は、同じく天武天皇の妃となっていた持統天皇の同母の姉で、その後、この大伯皇女と大津皇子を残して若くして亡くなってしまうのです。
大和から筑紫への遷都という過酷な状況での出産が、後々まで体に障ったのかもしれません(大涙)
まさしく「遷都」の名称にふさわしく天皇家一族を引き連れての大移動だったのです。
朝倉の恵蘇八幡宮 木の丸殿で母子への思い
斉明天皇の北部九州遷都します。
百済救援のために瀬戸内海を西に航海し、筑紫の朝倉橘広庭宮に遷幸し、いよいよ臨戦態勢に入りました。
斉明天皇の朝倉山御陵から橘広庭宮方面を臨む
朝倉地域には、神功皇后の松峡宮(まつおのみや)をはじめ、神功皇后の濃厚な伝承があります。
朝倉に入った天智天皇は、宇佐から応神天皇を分霊してお祭りしました。
それが恵蘇八幡宮(朝倉市山田)です。
その後、天武天皇の御世に斉明伊天皇・天智天皇を合わせてお祭りしたそうです。
この地を訪れて、母子それぞれへの思い深くしました……
恵蘇八幡宮から小さい谷を隔てた反対側に宮があったと言われています。
筑紫平野のかなり内陸部に入った地です。
背後には天照大神をお祭りする麻氐良山(まてらやま)(朝倉山)を臨んでいます。
天照大神や神功皇后ゆかりの「朝倉」で、安心感があったのでしょう。
川幅の狭まった筑後川が大きく屈曲して、豊前・豊後・筑後方面の道が通じる要衝地です。
こうして国難打開のために遷都して、倭国の巫女的霊力の伝統によって国難の打開を図ったのですが、なんと!朝倉宮に落ち着いて間もなく、遠征軍が発する前年に、斉明天皇は、あっけなく崩御されてしまったのです。
68才ともされます。長旅のお疲れだったのでしょう(大涙)
……中大兄皇子がすぐに即位せずに「称制」であったのは、やはり女帝で海外戦争への思いからとみられます。
一説には妹の間人(はしひと)皇后((36)孝徳天皇皇后)が中皇命(なかつすめらみこと)として即位したという説もあります。
天智天皇の母への挽歌(ばんか)
最愛の母を失った中大兄皇子の悲しみは深かったようです。
こうした状況下では、正式な殯(もがり)の建物を建てることもできず、木肌を削る時間もなく、切り出した丸木のまま、簡素な建物を建てて、殯(もがり)の仮装をするしかなかったのです。
それで「木の丸殿」と呼ばれる旧跡が伝わっています。
この朝倉山の一画には斉明天皇を仮埋葬した御墓山があります。
斉明天皇御陵
朝倉や 木の丸殿に我居れば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
(『新古今集』)
(簡素な殯(もがり)の建物は、小さく不用心なので、次々と名のって入ってくる者があとを絶たず、こうして時間が過ぎていってしまう……)
おそらくは、母の斉明天皇がずっと守ってくれていたからこそ、中大兄皇子は、どうにか生き延びてここまでやって来られたのかもしれませんね。
秋の田の 刈穂の庵(いお)の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ
(小倉百人一首)
この歌は、のどかな大和の農村への行幸を詠んだ歌、ではなかったのでした(汗)……
歌の解釈はいろいろありますが、少なくも、こうして筑紫の朝倉を訪れて、旧跡や自然にふれてみると、天智天皇の母を亡くした悲しみの思いが、すっと心に入ってきます……
『日本書紀』にも中大兄皇子の挽歌(死者を鎮める歌)がありました。
単なる儀礼的な歌として、通り一編に読み過ごしていました(汗)
あらためて読み返すと、幾多の困難にあたり手を携えて乗り越えてきた、斉明天皇と天智天皇の母子の絆が偲ばれて、目頭が熱くなるのです(涙)
(斉明)天皇の喪、帰りて海に就(ゆ)く。ここに、皇太子(中大兄皇子)、一所(ひとところ)に泊(は)てて、天皇を哀慕(しの)びたてまつりたまう。
すなわち、口号(くちうた)したのたまわく、君が目の 恋しきからに 泊(は)てて居(い)て かくや恋いむも 君が目を欲り。
(あなたにお会いしたいのです。
このように同じ場所にずっと付き添っているのですが、生きているあなたに、もう一度お目にかかって魂を触れ合わせたいのです……)」
……
皇族の方々のさまざまな思いのこもった「遷都」でした。
来月の古代史日和は、末永先生の「飛鳥藤原京から、奈良平城京への遷都」のお話しです。
→終了しました
終わりに、額田王(ぬかたのおおきみ)が、天智天皇の「飛鳥から近江大津京への遷都」を詠んだ歌をあげておきます。
三輪山を しかも隠すか雲だにも 心あらなも 隠そうべしや
(これでもう懐かしい三輪山の見納めになるのですから、どうか雲が晴れて、崇高な三輪山の姿を拝ませてくださいませんか。さらば三輪山……)
三輪山