諏訪がわかれば日本の歴史がわかる「諏訪大社編」のつづきです。
目次
縄文巨木文化が蘇生する御柱祭
諏訪大社では年間を通じてさまざまな神事が行われ、関係する摂末社の祭事を合わせると200余りになります。
中でも「式年御柱(おんばしら)大祭」は、七年目ごとの寅(とら)・申(さる)の年に行われる、諏訪大社の代表的な祭祀です。
「人を見たければ諏訪の御柱へ行け」という言葉もあります。
古く桓武天皇の時代から行われた記録があります。
八ヶ岳から切り出した巨木を、氏子が総力を結集して切り出して、15キロ(下社は8キロ余り)余りを運搬。
御柱を引いて、川を渡り、坂を落とす難所を越えて、四社それぞれの社殿の四隅に建てる祭事です。
この御柱祭りを見ると、金属器もなく、運搬の車もない縄文時代に、巨木を建てるという行為が、どれほど人々の総力を結集させたものであったかを、思い知らされるのです。
そしてこのような祭事が今なお残されているということに、驚愕の思いです!
上社本宮一之御柱
上社前宮二之御柱
さらに諏訪大社の本社だけでなく、諏訪大社の摂社末社など、信濃の国のあちこちで、御柱祭が施行され、御柱がそそり立つ神社を目にするのも驚くばかりです!
矢彦神社二之御柱
長野県上伊那郡辰野町小野
八剣神社の御柱
長野県諏訪市
薙鎌が打たれてご神木になる
この御柱の御用材になる巨木に、諏訪大社のご神宝で、諏訪信仰のシンボルとされる「薙鎌(なぎがま)」を打ち込む、「御柱本見立て」が行われます。
背中に切り込みのある丁字頭(ちょうじがしら)勾玉のような形です。
この薙鎌打ちの神事によって、巨木は初めて御柱(おんばしら)というご神木になるのです。
下社は薙鎌でなく、しめ縄を張ります。
さらに薙鎌については、御柱祭りに因んで特別の神事があります。
御柱祭の前年、諏訪大社の最高神官の大祝(おおほうり)は、信越国境にある、長野県最北の小谷(おたり)村の小倉明神のご神木に薙鎌を打つために参向します。
上社の大祝は「この地からでない」という誓約を守り、下社の大祝(おおほうり)が、諏訪からはるばる新潟県の糸魚川市との県境の山中に、神事に出向くのです。
糸魚川市は、ヒスイの原産供給地で、奴奈川姫(ぬなかわひめ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)のふるさととされています。
守矢資料館の薙鎌(なぎがま)と神籬(ひもろぎ)
諏訪大社の前宮(さきみや)は、諏訪祭祀発祥の地ともされます。
前宮の泉
代々の大祝の即位式が行われました。
神の山から流れ出す水眼(すいが)の清流が流れます。
この水で清めて、神事に使うそうです。
古く由緒ある神社には、清流がありますね。
絶え間なく音をたてて流れる清らかな水で、有難く手を清めて、柄杓で口をすすいで参拝しました。
本宮と前宮の間には守矢資料館があります。
古くミシャグジ神を祭る、神長官(じんちょうかん)の守矢氏の邸宅の敷地内に資料館があります。
縄文時代を思わせるようなクラシカルに設計された建物の屋根を突き抜けて、薙鎌が打たれた御柱がそそり立ち、出迎えてくれています。
資料館には、貴重な古文書や絵図とともに、御頭祭(おんとうさい)の神撰に奉献される、鹿や魚などのはく製が展示されています。
驚きの展示内容でした!
動物愛護団体から批判をあびそうですが、あえてこのような展示物を残しておいてくれることで、狩猟採集時代の人々の営みや祭祀の様相を想起させてもらえるのです。
私たちの先祖は、海や山の幸の恵みによって生かされてきたこと、そして今なお、人間が生きている以上、海の幸山の幸によって生かされていることを、認識させられのです。
近年は、こうした生き物の神饌は、すべてはく製でとり行われているとうかがいました(汗)
資料館を出ると、守屋山の中腹に開けた明るい丘が見渡せます。
ミシャグジ神が降臨する神籬(ひもろぎ)の祭壇がありました。
上社の本宮は、通常の神社の鬱蒼とした社叢の中にありましたが、この守矢資料館の祭壇は、明るく開かれてのびやかです。
栗や梶のご神木で構成されています。
梶の木は諏訪大社のご神紋です。
見事なクリの巨木をご神木にするところに、三内丸山遺跡の栗の木の栽培も思い出されて、由緒の古さを感じさせました。
実はこの時の旅は、はるばる福岡からお越しいただいた河村先生に、初めて諏訪の歴史文化にふれていただく旅を企画したものでした。
前日の尖石考古館の縄文土器や土偶、黒曜石にヒスイ、そして次々と現れる御柱もさることながら、この守矢資料館の縄文文化を深める展示内容や、野外の神籬(ひもろぎ)の祭壇。
北部九州の弥生時代の高水準の青銅製品・鉄器・土器を見慣れた河村先生も、コペルニクス的な?衝撃があったようです!
「諏訪には、引き込まれるな」と、福岡の古代史の先生が、はるか太古にさかのぼる諏訪信仰の奥深さに感動して下さり、心からうれしかったです(拍手)