「出雲の国譲り神話」を深める神社と遺跡

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こんにちは!yurinです。

昨日は古代史日和勉強会で「神社と遺跡が語る古代出雲について」を、えみこ先生がお話しくださいました。

『古事記』には、出雲の大国主命が、天照大神が采配する高天の原勢力とのやり取りの末、最終的に治めていた国をお譲りする、という「出雲の国譲り神話」が記されています。

この神話には、史実の核があるのではないでしょうか。

出雲大社から広がる神々の世界

5月13日(日)の勉強会では、初参加の方、常連のメンバーを含めて自己紹介から始まりました。

皆さん実にさまざまな古代史の分野に興味をお持ちで、伺っているだけでワクワクしてきます^^

 

九州の装飾古墳、諏訪大社のミシャグジ神、神功皇后、応神天皇、太占(ふとまに)、銅鐸、……無関係に見えても、実は邪馬台国とつながっていくのでは?と探究心は広がります。

 

古代史にかぎらずどの分野でも「専門性」が強調されて過ぎて、講演会・講座などに参加し専門家の先生にお伺いすると、その「部分」はわかったような気もします。

……ですが「いったい全体はどうなっているのか?」を考えると、さまざまな事象が結びつかず、本を読むほど講演会をきくほどに、混乱してしまうことがありませんか(汗)?

 

混乱した糸を少しずつ紐とくように、古典・考古学・神社・地域の伝承・旅の見聞・講演会などの情報を交換し合いながら、日本の古代史像を深めていきたいものです。

以下は、えみこ先生のお話しをまとめてみました。

出雲の神社と遺跡に関する勉強会の第3回目です。

 

第1回の勉強会は、出雲といえばなんといって出雲大社から始まりました。

さらに出雲には注目すべき由緒ある神社が続きます。

 

第2回の前回は、素戔嗚(すさのおのみこと)の八岐(やまた)の大蛇(おろち)神話にちなむ、日御碕(ひのみさき)神社、熊野大社、八重垣神社などを勉強しました。

出雲の大国主命は「おおくにぬし=たくさんの国々を支配する主(あるじ)」といわれるまでになりました。

 

そこまで成長するには、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の土台作りが大きかったことも、わかってきます。

前回の勉強会についてはブログに書きましたので、読んでみてくださいね。

出雲三大社の一つ佐太(さだ)神社

山陰本線の松江駅に下りると、たちどころに神社の案内やパンフレットが目につきます。

奈良時代の『出雲国風土記』には300社を越える神社が記されています(スゴッ)!

 

実は、『出雲国風土記』に記された神社の数は「あの銅剣の数」と同じではないか?という見解が提出されているのです。

1984年、出雲市斐川町の神庭(かんば)の荒神谷(こうじんだに)といわれる狭い谷から、整然と並べられた、弥生時代の銅剣が発見されました。

それまで全国から出土していた銅剣の総数を上回る358本もの銅剣の出土です(大拍手)!!

 

さらにそこからわずか7メートル離れた場所で、銅鐸6個、銅矛16本が出土したのです。

それまでの考古学は、銅鐸と銅戈は異なる文化圏に属し、同じ場所から出土しないとされていました。

その通説をくつがえしたのです!

 

しかもその358本の銅剣の数は『出雲国風土記』の神社の数と同じと指摘されるのです!

神社を考える重要性が増します。

出雲の神社それぞれについてうかがってみると、歴史と由緒を深く感じます。

 

そうしたたくさんの神社の中で「出雲の三大社」とされるのが

  • 出雲大社
  • 日御碕(ひのみさき)神社
  • 佐太(さだ)神社

です。

 

佐太神社(松江市鹿島町)は、出雲の国二の宮です。

祭神の佐太大神(さだのおおかみ)神は、導きの神として名高い猿田彦大神と同一とされます。

大社作りの社殿が3殿並び国の重要文化財になっています。

 

年間75回の祭儀があり、中でも「御座替祭(ござかえさい)」に奉納される「佐太神能」は、出雲地方を代表する神楽で、国の重要文化財です。

さらに2011年にユネスコの無形文化遺産に登録されました(大拍手)!!

神事といえば美保神社の『青柴垣(あおふしがき)神事』、『諸手船(もろたぶね)』神事も有名です。

国譲り神話を想起する神事

美保神社(松江市美保関町)は、島根半島の東端にあります。

『古事記』で大国主命の息子である事代主命(ことしろぬしのみこと)は、高天の原の武甕槌命(たけみかづちのみこと)の国譲りの要求に対して、父の大国主命から助言を求められます。

恐(かしこ)し。この国は、天つ神の御子に奉(たてまつら)む

(かしこまりました。この国は、天つ神の御子に奉りましょう)

事代主命はこのように申し上げると、乗っていた船を傾けて、

天の逆手(さかて)を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき

と、あります。

 

「天の逆手を青柴垣に打って」という動作が、実際にどのような所作であったかは不明なのですが、何か尋常でない拍手の仕方で、船から海の中へ入って行かれるのです。

これは本当に「国譲り」に因む祭事かどうかは不明で、もともとは春4月の豊作祈願祭であったという見解もあります。

 

一方の『諸手船神事』も、大国主命が「国譲り」の際に事代主命に諸手船で使者を送ったとの故事にちなみます。

もとは旧暦11月の「八百穂祭」として行われました。

このほか神魂(かもす)神社(松江市大庭)は、天照大神の御子の天穂日命(あめのほひのみこと)が、高天の原から降臨してきたとき、創建した社とされます。

 

その後、出雲の国を大国主命から継承してきた出雲の国造(くにのみやつこ)家の私邸として発展したとされます。

実際に訪れると出雲大社の本殿は、玉垣に囲まれて「屋根」しか見えないのですが。この神社では大社作りの全貌を目にすることができます。

出雲大社は古代のハイテク技術で建造?

大国主命は国譲りの条件として提示したのは、「巨大な建造物」でした!


川崎日香浬氏『お諏訪さま物語』より

 

『古事記』に次のように記します。

ただ僕(あ)が住所(すみか)は、天つ神の御子の天津日継(あまつひつぎ)知らしめす、とだる天の御巣(みす)の如(ごと)くして、

底つ石根(いわね)に宮柱(みやばしら)ふとしり、高天の原に氷木たかしりて治め賜わば、僕(あ)は百足(ももた)らず八十(やそ)くま手に、隠りて侍(はべ)らむ

(ただ私の住む場所は、天つ神の御子が皇位をお継なされる立派な宮殿のように、地底の岩盤に届くほどしっかりと太い宮柱を立てて、天に向かい高々と千木(ちぎ)をかかげた神殿をお造りくださるならば、はるかに遠い幽界に引退いたしましょう)

 

『古事記』の大国主命が要求したとおりの建物にふさわしいものかどうか、現在の出雲大社のご本殿は、高さ8丈(約24m:8階建てビル相当)です。

社伝では、中古は16丈(約48m)、それ以前の上古は32丈(約96m)の高さがあったとったと伝えらています。

 

また平安時代の『口遊(くちずさみ)』という書物に、大きな建物として「雲太、和二、京三」と記されています。

それぞれ「出雲大社、大和東大寺、平安京大極殿」の文字を一部とって、もてはやされるほどの大きな建造物です。

雲太:出雲大社
和二:大和東大寺
京三:平安京大極殿

出雲大社は、東大寺大仏殿や平安京の宮殿を上回るほどでした!

 

おりしも2000年に、出雲大社境内から巨大な柱跡が発見されたのです。

3本の柱を鉄の輪で束ねて直径約3mの1本にした柱の痕跡でした。

柱跡は宮司家に残る資料と共通する部分が多く、また建築学者などのプロジェクトチームが検討した結果、48mの高さは建築可能、事実だった可能性が高まったのです(大拍手)

 

この柱は1248年に造営されたご本殿に使われたものと考えられています。

なぜ、これほどの神殿が必要だったのでしょうか?

出雲を中心に日本海の交流

えみこ先生が始めと終わりに強調したのは「日本海の交流」です。

現在の首都の東京は太平洋側にあり、海外といって真っ先に浮かべるのは、アメリカです。

 

一方、古代の海外といえば、まず韓国や中国で、海流の流れにそって日本海を囲むように、稲・道具・鉄・武器・ヒスイなどの物流、文化、人の交流がなされたのです。

特に巨木文化は日本海広域に及んでいるとわかってきました。

出雲は日本海交流の中心にあるようです。

 

そして、

  • 39個の銅鐸が出土した加茂岩倉(かもいわくら)遺跡
  • 激しい戦いの痕跡を伝える青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡
  • 弥生時代最大の400棟の住居が出土した平和な集落の妻木晩田(むきばんだ)遺跡
  • 出雲や三好盆地周辺から発祥した独自の四隅突出型古墳

など、古代史像を深めてくれる遺跡も尽きないのが出雲の国でした。

……

質問コーナーでは「神社の本来は、神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)のはずですが、どうして大国主命はいきなりこのような大きな建物を要求したのでしょうか?」という質問がありました。

 

「当初の出雲大社の神殿がいつ建てられたのか?第37代斉明天皇の時代になってからでは、という説もあります」と、建物の築造年代論にも及びます。

確かに巨大建造物を要求した大国主命の心はいかばかりか、巨木文化の最高峰を極めるような建物で、後世までも威信を示したい、との望みをたくしたのかしら……?

 

「八雲たつ出雲」のように、次々と疑問と探求心が湧いて尽きることがないほどで、その後はみなさんお茶会へ流れました^^

今回の第3回で出雲大社と出雲の国については、ひと区切りになりますが、この先もさまざまな古代史テーマと必ずかかわっていくことになる「出雲」と思います。

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