さらしなの里の古社 武水別神社~北信地方の随一の名神大社【1】

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こんにちは、yurinです。

長野県の千曲川べりのささやかなお社の佐良志奈(さらしな)神社。

その佐良志奈神社から千曲川を少し下ると、戸倉町から八幡(やわた)の町になります。

その名の通り「お八幡(はちまん)さん」で親しまれる武水別神社(たけみずわけ)神社があります。

長野盆地では善光寺についで、初詣客が参拝します。

神社では、北信地方の随一の名神大社です。

武水別大神(たけみずわけおおかみ)から源氏の氏神八幡神へ

武水別神社の祭神は、武水別大神(たけみずわけのおおかみ)です。

神社名になっている「武水別(たけみずわけ)の神」は、千曲川の治水と、五穀豊穣を祈願する神さまです。

 

相殿に京都の石清水八幡宮のから勧請されたという誉田別命(ほんだわけのみこと)・息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩(ひめ)大神をお祭りします。

比咩(ひめ)大神は宗像三女神です。

 

応神天皇が八幡神として源氏の氏神となり、後世の武将から崇敬されたので「お八幡さま」の名称で知られます。

もともとこの地域の総社(地域内の神社の祭神を集めてまつった神社)の意味合いもあるようです。

ある時代に近隣の神社の神々を合わせて祭った神社ともいわれます。

日本神話のはじまりの国常立尊(くにとこたちのみこと)から、天照大神を経て、神武天皇、日本武尊、菅原道真まで、ありとあらゆる神々をお祭りする摂社があります。

火の神の迦具突智(かぐつち)のような縄文アニミズム信仰に遡るような自然神まで祭ります。

大きな神社では、境内に関連する神々をお祭りしますが、これほど日本神話の神々がおそろい!になるのも珍しいかも……?

神話のレクチャーしたくなります(笑)

 

中世の始まりに千曲川に軍勢を集結して挙兵した源(木曽)義仲が、川中島の横田河原の戦いに向かうさいに戦勝祈願しました。

 

さらに戦国時代には、5度におよぶ川中島の戦いでは、甲斐源氏の武田信玄よりも、むしろ上杉謙信が祈願文を奉納したとも伝えられています。

それはもともとこの地の領主の村上氏が清和源氏の出身で、武田信玄に侵攻されて越後の上杉謙信を頼ったことによるようです。

『延喜式』名神大社で、信濃の国では諏訪大社につぐ神階

平安時代の『延喜式』神名帳(延喜5年、927)には、

全国2861の神社、3132座の神名

が記されています。そこに記されているだけでもたいしたものなのです(拍手)!

一般的に「式内社」と呼ばれて、平安時代に存在した神社の中でも、国家から「官社」として認められた格式ある神社として、幣帛が捧げられます。

 

さらにその中にも「名神(みょうじん)大社」と呼ばれる、ワンランク上の神社があります。

日本全国に226社、313

が記されています。

名神(みょうじん)は、古代から特に霊験あらたかとされた由緒ある神々です。

※霊験あらたか:神仏を拝んで現れる、不思議な効果が絶大とされること

国家が天災・人災に見舞われたり、あるいは国難が予測される時、祈願します。

 

いわゆる後世の各都道府県にある「一の宮」と重なる場合が多いのです。

信濃の国の一の宮は、もちろん諏訪大社(諏訪市、旧諏訪郡)です。

上社・下社ともに「南方刀美(みなかたとみ)神社二座」として「名神大社」になっています。

 

ほかに安曇野市(旧安曇郡)の穂高神社、長野市(旧水内内郡)の建名方富命彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社、

上田市(旧小県(ちいさがた)郡)の生嶋足嶋(いくしまたるしま)神社二座、そして千曲市(旧更級郡)の武水別神社(たけみずわけ)神社です。

生嶋足嶋(いくしまたるしま)神社

武水別神社(たけみずわけ)神社

名神大社は、一つの都道府県に一社あるかないかというほど希少なので、信濃の国に7座鎮座するのは、この地方が古代から由緒ある神々がいらっしゃる風土といえるでしょう。

中でも武水別神社は、従二位という、諏訪大社につぐ神階が授けられています。

近接する大前方後円墳があることも考慮すると、朝廷は諏訪の神さまを配慮して、高い神位を授けたのではとみられるのです。

 

この中のさらしなの里の武水別(たけみずわけ)神社に、結婚してからは、毎年初詣に参拝しています。

第8代孝元天皇の時代の創建

神社の由緒書きなどを見ますと、一般的には実在されていない天皇の時代の創建とされる由緒を、しばしば目にします。

ですが初期天皇が実在しないとされてしまったのは、長い日本の歴史の中で、第二次大戦の敗戦後のほんのつかの間のできごとでした。

未曾有の敗戦なのですから、その後に一時的に湧いて来た歴史認識は、時間をおいて冷静にみつめて検証していくべきと考えています。

 

四道将軍の大彦命が派遣されたのは、『日本書紀』では第10代崇神天皇の時代とされています。

ですが実際に、信越方面の神社を参拝してみると「第8代孝元天皇の時代の創建」という神社に、しばしば遭遇します。

大彦命は、孝元天皇の皇子です。

それで父の孝元天皇の命を受けて、すでにその時代に信越方面に遠征していたのではないかということも考えます。

 

そしてこちらで武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が生まれて成長し、同じように生まれた娘も崇神天皇の皇后になったかもしれない、と。

その後、第10代崇神天皇の時代に、正式に父と子で将軍として追認されたのではないでしょうか。

「孝元天皇の時代の創建」の神社については、そのようなストーリーを考えます。

 

一方で、武水別神社の御祭神の武水別大神について、それほど深く思いをめぐらすことはないままでした。

信濃で信仰の盛んなお諏訪さまの子孫で、千曲川の治水を祈り、功績あった方をお祭りしたお方かしら?くらいに漠然と思って、参拝してきたのでした(大汗)

千曲川

神八井耳命の子孫の武水別命(たけみずわけのみこと)

ところが、ある時、突然にご教示くださったのが、前に書きました大平武子(おおひらたけこ)氏で、旧姓嶋田武子氏でした。

武田家から松代藩の真田氏に仕えた、神八井耳命(かむやいみみのみこと)のご子孫です。

 

『古事記』の神武天皇の段の最後には、神武天皇の御陵の記事の直前に、弟に皇位を譲った神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫の記事があります。

神八井耳命は、意富臣(おおのおみ=太氏・多氏)・小子部(ちいさこべの)の連(むらじ)・坂合部(さかあいべ)の連(むらじ)・火(ひ)の君(きみ)・

大分(おおいた)の君・阿蘇の君・筑紫の三家(みやけ)の連・雀部(さざきべ)の臣(おみ)・雀部(さざきべ)の造(みやつこ)・

小長谷(おはつせ)の造(みやつこ)・都祁(つげ)の直(あたい)・伊予(いよ)の国造(くにのみやつこ)・科野(しなの)の国造・

陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造・常陸(ひたち)の仲(なか)の国造・長狭(ながさ)の国造・

伊勢の船木の直(あたい)・尾張(おわり)の丹羽(にわ)の臣(おみ)、島田の臣(おみ)の祖なり

 

『日本書紀』では、神八井耳命について、

これすなわち、多臣(おおのおみ)が始祖(はじめのおや)なり

と、シンプルに多氏について記しているだけです。

古代史学者の安本先生によると、『古事記』は「天皇家の家記」という見方もできるので、いっそう神八井耳命の子孫を詳細に記したのものとみられるのです。

 

そしてその『古事記』の記事について、『先代旧事本紀』「国造本紀」、『風土記』、熊本県の阿蘇神社に伝わる『阿蘇氏系図』などによって、それぞれ補い合って確認できます。

 

『古事記』にあるように、神八井耳命の子孫は、火(肥)の国造、科野(信濃)の国造になっています。

それぞれ阿蘇神社、諏訪大社下社を奉斎してきました。

火(肥)の国造→阿蘇神社
科野(信濃)の国造→諏訪大社下社

そして「武水別大神(たけみずわけおおかみ)」という名称が、『阿蘇氏系図』にしっかりと記されていました!

前後の人名についても『先代旧事本紀』『風土記』、地元神社や古墳の伝承とも一致します。

大平さんからのご教示で、武水別神社の祭神の「武水別神」が、実在していることが理解できたのです!

本当に驚きでした(大拍手)!!

つづく

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