天照大神を祭るお社に参拝【1】柏市神明社のつづきです。
目次
江戸川でスーパームーン
1月2日は、おりしも夕暮れの時間に埼玉県の三郷(みさと)から江戸川を渡っていると、「あれ!?すごい!」と、橋の上から大きな月に気づいて驚きました!
「そういえばスーパームーンとか言ってたな」と、夫。
1年で満月がもっとも大きく見える日とか。
2日の未明が一番大きかったそうです。それは見落としました(大汗)
1月3日撮影
地球を回る月の軌道は楕円(だえん)形で、最も近づいて35万7000キロになるために大きく見えるとのこと。
一番遠くなる7月の満月は、40万6000キロで、見かけの面積が30パーセント大きく、30パーセント明るく見えるそうです。
その満月を見たら、ひと月前の長野県大町市の仁科神明宮の満月を思い浮かべました。
おりしも神社の鳥居の間に昇った大きな満月でした……
糸魚川から諏訪への「塩の道」の中継点
北アルプスの山麓、諏訪から糸魚川へ「塩の道」千国街道が通じています。
日本海から内陸の信州へ塩や海産物が運ばれた道です。
本州内陸部の八ヶ岳縄文世界の人々も「塩」がなくては、命脈は立たれてしまいます。
その「人間の生命に必須の塩」を運ぶ道です。
戦国時代に武田VS上杉が死闘を繰り広げていましたが、武田信玄は、その戦略を方向転換して、南の今川氏や北条氏と対峙するようになりました。
すると敵方は、内陸の甲斐の国の生命線の「塩」をストップしてしまったのです。
しかし一方の宿敵といえど、上杉謙信は「塩」を封鎖することはしませんでした。
民衆を巻き込んで苦しみを与えることをしなかったという、上杉謙信の人柄が偲ばれる逸話です。
日本海の塩は、絶えることなく信州へ甲斐の国へと運ばれたのです。
この塩の道こそ、「黒曜石の道」「ヒスイの道」「麻の道」でもありました。
その塩の道の中継点の大町市に、仁科神明宮があります。
神明造りの本殿は国宝です。
大彦命の子孫は姫川筋を掌握して仁科氏に
先月に長野市の川柳将軍塚古墳は、四道将軍の大彦命の墓である、と書きました。
そして千曲川を隔てて対岸にある森将軍塚古墳について、当初は、大彦命の子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)の古墳では?と考えました。
森将軍塚古墳は、川柳将軍塚古墳より10メートル大きく、100メートルを超える東国有数の前期古墳です。
森将軍塚古墳
この古墳こそ大彦命の御子の四道将軍の墓にふさわしいと思ったからです。
父子で千曲川の両サイドの守護神となるのもピッタリです……
しかし地元の伝承では、森将軍塚古墳は、大彦命の一族の古墳ではなく、信濃の国造の建磐竜(たけいおたつ)の古墳とされてきたのです(大汗)
……どうして、大彦命はせっかく築いた基盤を、建磐竜(たけいおたつ)に譲って、子孫はどこかへ行ってしまったのかしら?
……それが、どうしても説明がつかない謎でもありました。
やはり、川柳将軍塚古墳は、大彦命の墓ではないのかも……?
そうした矢先に現れた救世主が、先にお話しした大平武子氏です!
神武天皇の皇子の神八井耳命の子孫の島田臣(しまだのおみ)のご子孫として、長野県に在住されてきたことはすでに書いた通りです。
大平さんのご説明で、
四道将軍とともに下向した神八井耳命の一族が、信濃の国造になった
といういきさつをうかがい、すべて納得したのでした。
『阿蘇氏系図』に記される、日本列島各地に広がった神八井耳命の子孫の名称が、『風土記』『先代旧事本紀』そして地元の伝承と補い合い、次々と確認できたのは実に爽快でした!
そして、大彦命の子孫の阿倍氏は、信濃の国では千曲川から姫川流域に拠点を移して「塩の道」の利権を掌握して統治してきた、との地元の伝承とも合致したのです。
信濃の名族の仁科氏です。
その大彦命の子孫とみられる仁科氏がお祭りしてきたのが仁科神明宮です。
巨杉の参道
日本最古の神明造り国宝の本殿と巨杉
仁科神明宮の祭神は天照大神。
千葉県柏市の沼南神明社と同じく、伊勢神宮の御厨(みくりや)がありました。
「仁科の御厨(みくりや)」です。
平安時代の寺院の文書から知ることができます。
大町市に編入された美麻(みあさ)村をはじめ、東筑摩(ちくま)郡麻績(おみ)村など、北信地方には「麻」の産出が顕著でした。
神事や衣服や漁業に欠かせない「麻」です。
伊勢神宮でも天照大神のお札を「神宮大麻」といっています。
もとは「大麻(おあさ)」がそえられていたといいます。
御厨の設置は「麻」とも関係があるとみられます。
仁科神明宮は、その御厨設置にともなって、伊勢神宮から勧請されたと考えられています。
背後の宮山(みややま)の麓に、高瀬川を隔てて北アルプス連峰を遥拝する高台に鎮座します。
「ニシナ」の自然地名に因んで、仁科氏と呼称するようになりました。
仁科神明宮は、20年ごとの式年遷宮が施行されてきました。
現存する最古の棟札は、南北朝時代の永和2年(1376)の遷宮の時のものです。
この棟札には、造営奉仕の仁科一族の名称、主な家臣団、大小工・檜皮葺・釘奉行・銅細工・鍛冶奉公人などの職人名、社殿造営の日時、作料、祝料などが記されています。
そしてなんと現在まで600年間、1枚も欠かすことなく30枚以上が保存されてきました。
これによって20年ごとの遷宮が、造営奉仕者が仁科氏~武田氏~松本藩主と交代しながら、一度も欠かさずに行われてきたことがわかります(大拍手)
社殿は内宮形式を取り入れた神明造りです。
古くは社殿一式をすべて造り替える方法がとられていましたが、寛永13年(1636)松本藩主が奉仕者になってからは、部分修理に留めるようになりました。
現在の本殿とその前にある御門屋、さらにこの両屋をつなぐ釣屋は、奈良時代に遡る神明造の古様式を留めていることから、古式の神明造りの唯一のものとして国宝に指定されています。
神明造りの本殿
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の上に、6本の鰹木(かつおぎ)を並べています。
偶数の鰹木と、先端を水平に切り落した千木(ちぎ)を掲げた様子は伊勢内宮と同じです。
格子戸の御門屋とともに、簡素な中に気品を感じさせるたたずまいがあります。
本殿すぐ脇の神籬(ひもろぎ)として、樹齢1000年以上という天然記念物の巨杉がそそり立っていましたが、昭和54年(1979)、老樹の寿命を迎えて枯れてしまったそうです。
その根元を残して大切に覆(おお)い、御小屋に中に納めています。
本殿と巨杉の御小屋
大和朝廷時代の「屯倉(みやけ)」の神域
仁科神明宮の岩戸神楽は、長野県の無形文化財に、社叢が長野県の天然記念物に指定されています。
神域は、仁科御厨の設置の時代より以前にさかのぼって考えられています。
社地の南の沢の「宮け沢」などの「みやけ」の地名が残っています。
すでに大和朝廷時代から、仁科神明宮の社地に「屯倉(朝廷の直轄地)」が置かれていたと考えられています。
ヒスイの糸魚川と、諏訪大社の中間に、大和朝廷の直轄地が置かれて、四道将軍の子孫が納めたというのは、自然の流れとして納得できます。
ちなみに大彦命の子孫は、長野市を東国の前進基地として、そこから吾妻峠や碓氷峠を越えて、関東方面へ進出していきました。
埼玉県行田市のさきたま古墳群には、「意富比垝(おおひこ)」の銘文が刻まれた鉄剣が出土した稲荷山古墳があります。
大和政権が、日本海方面から信濃を経て、東国方面へ拡張展開していく、そうした流れの中で、築かれたものと考えます。
北アルプスを遥拝する格好のポジション
振り返ってみますと、式内社と言われる由緒ある神社を訪れて、そこから仰ぐ山々はなんと美しいことか、と気づかされたのがこの神社が始まりでした。
槍で別れた梓と高瀬 めぐりあうのは押野崎
と「安曇節(あずみぶし)」で歌われる、北アルプスを象徴する清流の梓川と高瀬川です。
槍ヶ岳から南に流れ落ちた梓川と、北へ流れ出した高瀬川は、ふたたび安曇野市で合流して犀川になります。
参道からアルプスに目をやると、その高瀬川の深い谷を作る山々を、美しく眺望するまたとないようなポジション。
山々の絶好の遥拝所に、神社は築かれたのでは?と、認識されました。
山々は貴重な森林資源を育む神の領域です。
そもそも明治になって西欧から近代登山の思想が流入してくるまでは、修験者以外の一般人にとって山々は登るものでなく「拝む」ものであったのでした。
……今回は、天照大神さまを参拝するのに、夕方の参拝になってしまい、おそれおおいような気持ちもありました。
けれどもこの時間に、ガイドに案内されるヨーロッパの方面からの参拝客も来ていました。
白馬村からでも足を伸ばしたのでしょうか。
最近、神社で海外の金髪の方々を目にすることも増えていますが、このような、地方の神社まで海外からの旅人とは驚きです。
うれしく誇らしくもあります(大拍手^^)
参道を下り名残り惜しく、鳥居のところで振り返ると、なんと鳥居の正面に、大きな満月が山の端の上に昇っていました!!
太陽ばかりでなく、月がのぼる絶妙な位置に鳥居をたてて、社殿を建てる古代人の自然観照にあらためて感銘します。
社殿は北向きで、鳥居の正面でなく、直角の関係にあります。
その向きに少し違和感もあったのですが、太陽や月を意識したものだったとナットクしました。
鳥居の真ん中に納まる満月を見たのは初めてです。
とても大きく感じました。
菜の花や月は東に日は西に(与謝蕪村)
なんて歌もありますから、朝日もピタリと鳥居の下から昇ってくるのでしょう。
思いがけず仁科神明宮で拝んだ満月。
神社を巡っていると、一期一会の自然があります。