西都原古墳群とは?古墳時代を通じて築かれた古墳群

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こんにちは!yurinです。

西都原古墳群(西都市三宅)は一ツ瀬川右岸の標高60mに位置し、4世紀前半から7世紀前半にかけて連続して築造された大古墳群です。

前方後円墳32基のほか、円墳278基、方墳1基、地下式横穴墓10基、横穴墓12基などがあります。

 

「三宅(みやけ)」の地名が表す通り、大和朝廷の直轄地の「屯倉(みやけ)」が置かれた地であったとみられます。

三宅神社もあります。

今回は、西都原古墳群と西都原考古博物館に訪れたときの話をしていきますね。

古墳時代を通じて築かれた

西都原古墳群は、第12代景行天皇や第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の妃や皇子たちと係わる古墳群で、古墳時代を通じて築かれたと考えられます。

時代順にみていきますね。

4C前半

91号墳は墳丘規格から大和の箸墓古墳と類似しているとされる古墳。

4C後半

13号墳出土の三角縁獣文帯三神獣鏡は、畿内大和の特定工房で集中的に生産された。

沖ノ島の第18号岩陰遺跡から同范鏡が出土。

5Cの巨大古墳の時代

台地中央部の男狭穂塚(おさほづか)古墳は、全長175m、帆立貝型古墳(前方後円墳の方墳部分が短小)。

隣接する九州最大の女狭穂塚(めさほづか)古墳は全長180m、岡山市造山古墳の2分の1相似形。

5C半ば~8Cごろまで

地下式横穴古墳(地下式土壙墓)は宮崎県南部・大隅・熊本県の一部に分布する南九州独自の墓制。

 

これらの古墳は、瓊瓊杵尊の天孫降臨とその子孫である神武天皇の東征によって成立した、大和朝廷の発展と前方後円墳の進展を説明し、考えさせる古墳といえるでしょう。

 

さらに第12代景行天皇の遠征と巡行を契機によって築かれ、その後の倭の五王の時代とされる第15応神天皇代の大和朝廷との密接な関係を示唆するものでもあるといえます。

一方で、南九州独自の墓制も維持していることから、当地方の独自の文化を誇る地でもあったとみられます。

期待外れの西都原考古博物館

私が西都原考古博物館を訪れたとき、おりしも「国際交流展海山に宿る神々~日韓の祭祀遺跡~」展をしていました。

期待をはずませて、館内に入ると…… ……

まったく期待はずれでした(大泣)11月の連休中でしたが、人影もまばらです。

 

それはむしろ題名から察するべきでしたが、はるばる日本神話の神々との触れ合いを求めて、千葉からやってきて私には、衝撃でした!

瓊瓊杵尊や木花開耶姫などの文字はいっさいなしです。

神道考古学というのもありますが、ここにはまったくなし(泣)

昨年夏の東京国立は博物館の「縄文展」の印象があまりに深く刻まれていたので。

 

異国の神々の写真やおどろおどろしい人物画と一緒に展示されている縄文土器に、なんともチグハグな違和感のようなものしか感じることはできませんでした。

日暮れて道遠し……

海や山の祭祀遺跡を他地域と比較検討するなら、大陸や半島方面ばかりでなく本州や北海道の縄文やアイヌ文化も展示していただけたら……?

 

果たして西都原古墳に眠る神々となった古代人は、それほど大陸方面とばかり交流している人々だったのでしょうか?

考古学はいかにも客観的な学問のように見えるけれど、結局は「解釈」なしには成り立たないです。

「主観的」な側面もあるのです。

 

日本列島の土の中から出て来た考古学の遺物を、海外の文献だけで解釈して解説する……そこに展示されているものは、心の入らない空虚な「モノ」としか見えなかったのでした。

せっかくの遺物ですがそれを使用した人々も自然も、霧の中から見えてきませんでした……

西都原考古博物館に展示されていた船

西都原は国のまほろば

日本の古典を考慮せずに、もっぱら海外文献で解釈する博物館の解説には慣れています(苦笑)

それをこの地でも目の当りにした衝撃と失望はあったものの、博物館の最上階の展望台の眺めは、そのモヤモヤを一気に押し流してしまう絶景でした\(^0^)/

 

男狭穂塚・女狭穂塚も眼下にすぐ見下ろせます。

男狭穂塚・女狭穂塚

オシャレのレストランも併設され、お昼をすでにすませてしまい、こちらでランチの時間に合わせなかったことを後悔しました(泣)

さすがの景行天皇もこの高さまで登ることはできなかったでしょうが、付近の丘に上り、周囲の光景を見渡し、大和を懐かしんだと思われてきます。

 

江戸時代の松尾芭蕉でさえ「故人も多く旅に死せるあり」と書いたほどですから、気丈な景行天皇でも、大和への帰還を果たせるか不安な思いもあったでしょう。

そしてはるばる南九州のこの地にたどり着き、熊襲の平定もどうにか成し遂げて、このたおやかな山並みに囲まれたのどかな風景を見て、どれほど安堵したことでしょうか。

天孫降臨した瓊瓊杵尊も同じ思いだったかもしれないです!

それほどに西都原の自然は優しく清々しく、暖かでした^^

 

そして現代の一部の人たちによる、どんな考古学遺物の解釈があろうと、西都原の神々にはそうしたものを一切飛び越えて心に響いてくるパワーがあったのでした!

 

西都原は国のまほろば たたなづく青垣 ……そういう言葉さえ浮かんできます。

そう、ここは日本列島の西の都。美しく豊かな野原が広がっています。

男狭塚古墳・女狭塚古墳の地では、天孫降臨した瓊瓊杵尊と妃の木花開耶姫命の出会いを大切に語り継いでお祭りした人々もいたのでしょう。

 

そうした子孫の中から、再び畿内大和へ遷った天皇家のご子孫の、久しぶりの行幸を喜び、薄れた絆を再び確固たるものにしたこともあったと思われました。

 

千葉へ戻ったら、再び『日本書紀』『豊前国風土記』『肥前国風土記』を、丹念に読み返してみたいと思ったのです。

景行天皇が、はるばるこの地を巡行されたのは、日本国家統一の過程に、ぜひとも必要なことであったと偲ばれてきて、立ち去り難い光景でした……

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