西都原古墳群の女狭穂塚(めさほづか)の被葬者は?

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こんにちは!yurinです。

『日本書紀』に「筑紫日向可愛之山陵(つくしのひむかのえのやまのみささぎ)」と記される瓊瓊杵尊の陵墓は、南九州に数ヶ所伝えられていました、男狭穂塚古墳もその1つです。

 

瓊瓊杵神社の陵墓として、明治7年(1874)に薩摩川内(さつませんだい)市の新田神社の神亀山(しんきざん)の「可愛山陵(えのやまのみささぎ)」にご裁可が下されました。

「せんだい」は、瓊瓊杵尊が「千の臺(うてな、四方を見渡す高殿)」を築いたという伝承によるものです。

この「せんだい」地名は、今では宮城県の仙台市が有名ですね。

 

西都市で新婚生活を送った瓊瓊杵尊は、最終的に南九州の西北部まで勢力を拡張したようです。

男狭穂塚・女狭穂塚の候補者は?

男狭穂塚(おさほづか)古墳は、墳丘上には可愛塚(えのづか)神社があったとされ、隣接する女狭穂塚古墳とともに宮内庁の陵墓参考地として治定され管理されています。

陵墓参考地は特定の被葬者を定めない古墳ですが、宮内庁では、候補者として男狭穂塚(おさほづか)古墳の被葬者は瓊瓊杵尊、女狭穂塚(めさほづか)古墳は木花開耶姫命を挙げています。

 

一方で、広く日本全国を見渡すと、女狭塚古墳と形状が極めて類似している古墳があり、その関連性が指摘されています。

岡山県岡山市の造山(つくりやま、ぞうざん)古墳(全長350m、全国第4位)、群馬県太田市の太田天神山古墳(全長210m)は、女狭穂塚とほとんど正確な相似形古墳です。

 

古代史学者の安本美典先生は、これらの古墳の被葬者は15代応神天皇にゆかりの人物であろう、と考察しています。

太田天神山古墳の被葬者は、第10代崇神天皇の皇子で、上毛野(かみつけの)氏の祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫です。

神功皇后・応神天皇の時代に朝鮮半島へ派遣されて活躍した荒田別命(あらたわけのみこと)ではないかとされています。

応神天皇は吉備氏族と係わる

女狭穂塚古墳と係わる古墳として、岡山市の造山(つくりやま、ぞうざん)古墳があります。

岡山市には作山(つくりやま、さくざん)古墳(全長286m)という巨大古墳もあります。

岡山市の2つの巨大前方後円墳のうち、造山古墳は、応神天皇ゆかりの人物が被葬者として挙げられます。

応神天皇の妃の兄媛(えひめ)です。

 

兄媛は御子に恵まれず故郷を慕って沈みこむことが多かったので、吉備へ返されたとされます。

ひょっとすると、ひそかに皇子を懐妊したので、皇后をはばかり故郷へ帰していただいたのかもしません。

なにしろこの時代の葛城氏の勢力と他氏族への圧迫は、恐ろしいほどです(大汗)

 

その後、応神天皇は淡路島に行幸され、吉備へも巡行されました。

妃と皇子に対面したのかもしれません。

なお『古事記』では、応神天皇の御子の仁徳天皇と吉備の黒媛の逸話として書かれています。

女狭穂塚から吉備の2つの巨大古墳の被葬者におよび、応神天皇妃・仁徳天皇妃とその皇子にまで思いを馳せるのでした。

景行天皇も日本武尊も吉備氏族と密接な関係

畿内大和・河内の全長200mを越えるような巨大古墳の被葬者は、天皇や皇子を産んだ皇后です。

景行天皇の皇后は播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)で、播磨(兵庫県)の女性ですが、一族は第七代孝霊天皇から分かれた吉備氏族です。

 

『日本書紀』ではその孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめのみこと)こそ、大和の箸墓(はしはか)古墳の被葬者と書かれています。

岡山市の浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の2分の1の相似形であることが指摘されますが、倭迹迹日百襲媛(やまとととひももそひめのみこと)の兄弟は、吉備氏族の祖なのです。

四道将軍として吉備へ派遣され、その地を平定し統治したのでした。

 

景行天皇も皇子の日本武尊も、その吉備氏族と密接です。

日本全国に巡行した父子によって、吉備との関わりがある古墳や考古学遺物が全国に広がるのももっともなことです。

 

考古学の遺物を『魏志倭人伝』で解釈すると、きわめてかぎられた人物や国名で、日本の古代史像を構築するしかないのです。

邪馬台国吉備説、濃尾平野狗奴国説などもその流れの中にあります。

 

一方で日本の古典によって構築した古代史像は、登場人物・国名・地名のアイテムも豊富です。

日本列島の幅広い地域に渡り、総合的に矛盾の少ない古代史像を描けるのではないか?との思いを、フィールドワークするほどに深くします。

総合的に見て女狭塚古墳の被葬者は?

以上のことから畿内や吉備、東国の古墳まで考えると、女狭塚古墳の被葬者は、仁徳天皇の妃の、日向の髪長媛(かみながひめ)ではないでしょうか?

天皇の皇妃は、出身地で葬られお祭りされる場合も多いです。

 

日向諸国(ひむかのもろかた)の牛諸井(うしもろい)の娘で、応神天皇妃として迎えられ、皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に見初められ、妃になりました。

 

「諸県(もろかた)」は先のブログの狭野神社で「諸県舞(もろかたまい)」について書きました。

神武天皇ゆかりの氏族とみられます。

 

髪長媛は、大草香皇子(おおくさかのみこ)、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を産んでいます。『日本書紀』に記される皇子皇女です。

男狭塚古墳・女狭塚古墳を重ねてお祭りした?

男狭塚古墳・女狭塚古墳は、西都原古墳群の中心にある古墳です。

男狭穂塚古墳上には、可愛山神社があったとされます。

もしかしたら、瓊瓊杵尊と木花開耶姫命以来、祭祀を重ねてきた聖地かもしれません。

 

『先代旧事本紀』「国造本紀」は日本列島各地に派遣された約130の国造(くのみやつこ)についての記事があります。

これについてはブログで書きましたので、合わせておよみいただければ幸いです。

 

『先代旧事本紀』には「日向(ひむか)の国造(くのみやつこ)」について記載があります。

軽嶋豊明朝(かるしまのとよあきらのみかど=第15代応神天皇)の御代(みよ)に、豊国別皇子(とよくにわけのみこ)の三世の孫、老男(おいお)を国造に定められた

とあります。

また『日本書紀』では、

その国(日向の国)に御刀媛(みはかしひめ)という美人がいた。景行天皇はすぐに召し入れて妃とされた。妃は豊国別皇子を産んだ。これが、日向国造の始祖である

と、あります。

 

『日本書紀』と『先代旧事本紀』の記事は、情報を補い合って、本筋は一致しています。

景行天皇は日向で妃を召し入れて、豊国別皇子が生まれています。

その他にも日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)は日向襲津彦皇子(ひむかのそつひこのみこ)の名称もみられます。

 

男狭穂塚古墳は景行天皇の妃の御刀媛(みはかしひめ)や皇子の豊国別皇子、その子孫の老男(おいお)も考えられます。

 

要するに西都原古墳群は、天孫降臨した瓊瓊杵尊の子孫の中でも、第12代景行天皇や第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の妃や皇子たちと係わる古墳群とみられるのです。

『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』を読み解きながら、西都原古墳を巡ると、日本全国の古墳の被葬者まであれこれ浮かんできて、とても楽しい散策になったのでした^^

 

そして地元では瓊瓊杵尊と木花開耶姫命への追慕の念が深いこともうかがわれ、おそらくはその子孫たちは、先祖とともに重ねてお祭りしたのではないかと思われたのです。

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