こんにちは!yurinです。
「物部守屋の子孫が、諏訪大社の神長官守矢家の養子に入ったという説がある」と長野県の地誌で数十年前に知ったときは、実に意外でした!
本当にそんなことがあるのかしら?……蘇我氏との宗教戦争に敗れて諏訪に落ち延びた物部一族から、古来の地元の名族の家に養子に入る、というのは信じがたい思いでした。
………ですが、物部守屋の時代からかなり後になってから、そのようなこともあったかもしれない、と考えるようになったのでした。
物部守屋の次男が守矢家へ養子に入る
ところが『神長官守矢資料館のしおり』の冊子を読んでびっくり!
冊子には建御名(たけみなかた)の神と争った洩矢(もれや)の神からの78代の系譜が書かれています。
関係者のお話しでは、その27世の子孫の「武麿」(たけまろ)は「弟君(おときみ)」とも呼ばれるそうですが、物部守屋の嫡男の弟(つまり次男)で、神長官の家に養子に入った、ということです!
えっ!それはつまり諏訪大社神長官の家は、物部守屋の血が入っている!?……ということにもなるのですから(^0^)
守矢家が大切に祭る古墳
2017年12月刊『諏訪信仰の発生と展開』の中で、守矢早苗氏が「物部守屋の子の弟君で後に神長になった武麻呂(武麿)の墳墓を毎日拝んでいる」ことを書いておられます。
冊子の方に早苗氏は、祖父からの「用明天皇の御代の我が祖先武麿君の墳墓です」と言葉を記し、「円墳の石室を覗(のぞ)き込み、古代に思いをはせた」とあります。
早苗氏が先祖のお墓として大切に拝んできたのは、物部守屋の子のお墓だったのでした!
「養子になるなんて、大変なできごとですよね?」
と、関係者の方にお伺いすると、
「それはそうでしょう!守矢家の養子になるなんて、大変なことですよ。物部守屋が、古い神道祭祀を大切にする人だったから、よほど共鳴したんじゃないかな……」
「物部氏の始まりに宇摩志麻治命(うましまちのみこと)の母が、長髄彦(ながすねびこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)とされますが、その一族は諏訪や守矢家と関係があったのでしょうか?」
「そこまでは、記録がないからはっきりと言えないんですよね、ぜひこれから調べて考えてください」
ということでした。
『先代旧事本紀』によれば、物部守屋と祖祖父の代で分かれて、第26代継体天皇に絶大に信頼された、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の母は「諏訪氏」と書かれています。
そして守屋と麁鹿火(あらかい)の子孫は再び姻戚を結んでいて、物部氏の系譜からも、諏訪氏との近さが伺われます。
物部麁鹿火はこちらのブログにも少し書いていますので、読んでみてくださいね。
縄文時代の大切な樹木からなる御社宮司(みさぐじ)の祭壇
守屋資料館のある、守屋山の山麓の広く明るい敷地の中央に、御社宮司(みさぐき)の祭壇があります。
栗、栢(かや)、梶の木からなる神籬(ひもろぎ)です。
清らかな水路が流れる、ミシャグジ信仰の中心地として、太古から大切な樹木を植え次いで今日まできたのです。
「クリ」は、縄文人が貴重な食料源として、栽培植物として大切にされました。
青森県の三内丸山遺跡の栗林、石川県の能登の真脇遺跡のクリの木の巨木痕など、縄文遺跡からクリの木の重要性が認識できます。
栗は現代人が食べても美味しいですから^^
採集した栗を、縄文土器で煮てあく抜きをして、さらに乾燥させて石器で粉にひいて、保存したのでしょう。
団子などにして、他の雑穀と混ぜれば、安定した食料源となります。
縄文土器の発明が、食料源の可能性を広げたのでした。
またカヤノキは、モミの木に似た常緑の針葉樹で、今の季節に葉を落とした梶や栗の木とは違い、青々と生命力あふれた葉を茂らせています。
福岡の飯塚市立岩や、奈良県の明日香村の神域に「栢(かや)の森」の名称が残ります。
カヤノキは碁盤や将棋盤として最高の素材とされますが、彫刻しやすく木工品に使用されます。
イチイ科ですが、イチイの木は、寒冷地ではサカキの代わりに使用されます。
樹木は光沢があって美しく、弓矢が作られました。
守矢氏の氏族名称になっているとおり、狩猟に弓矢はかかせません。
岐阜県の飛騨地方では、イチイを利用した一刀彫の伝統工芸品があり、岐阜県の木になっています。
飛騨一之宮の水無(みなし)神社の奥宮は位山(くらいやま)です。
そこにはイチイの原生林があり、天然記念物になっています。
この神領のイチイで「笏(しゃく)」を朝廷に献上する古例がありました。
笏(しゃく)は、束帯の服装の時に右手にもつ細長い薄板です。
あ、と気づかれるのではないでしょうか^^
さらに「梶」といえば、諏訪大社の神紋になっています。
「なぜ、梶の木が紋になったのか?」とは、かの八剣神社の宮坂宮司も、いろいろ巡らせるそうですが、結論を出すのは難しい、とおしゃっていました。
ひとつの例として「宮中では七夕の時に、梶の葉に文字を書いて、短冊(たんざく)にして流します」というご教示をいただきました。
なんとも風雅な使われ方です。
梶の葉は、文字を書く「紙」の役割をしたのでしょうか。
そのような由緒ある樹木で構成されている神籬(ひもろぎ)が、ミシャグジ神の祭壇です。
今では神社というと杉が一般的ですが、祭壇の樹木からなんとも古い信仰を感じます。
「御頭御左宮司(おんとうみさぐじ)」の総社として、神長官の守屋家が大切にしてきた神籬(ひもろぎ)です。
社殿を建てる時代は「杉」、船が大切にされる時代は「クス」、さらに食料や紙として生活を潤す「栗」「栢」「梶」などの樹木を大切にした時代の面影を残しているのでした。
日本は森林資源の豊かな国です。
私たちの先祖は樹木のそれぞれの性質を熟知して、見事に利用してきたのです。
その樹木を大切にしてきたことも、実にすばらしく誇らしいですね!
ミシャグジの神籬の近くに眠る物部守屋の子孫
物部守屋の子の武麻呂(武麿)の墓という古墳を、今回初めて参拝させていただきました。
ミシャグジの神籬(ひもろぎ)のこんなに近くにあるのは、驚きでした!
八ヶ岳を遠望する高台の円墳に、杉の巨木がそびえています。
一度訪れれば、その巨木が目印となり、遠くからもその位置がすぐにわかります。
広々と明るい野原の中には畑もあり、おりしも梅の芳香が漂っています。
物部守屋の子とされますが、これをお祭りしてきた守矢家の人々は、日本古来の神道祭祀を大切にし、それに殉じた守屋自身を、中興の祖と仰ぎ精神的支柱にしてきたのでしょう。
その後も幾多の困難はあったとみられますが、こうして今日まで、連綿と諏訪信仰は継承されてきたのです。
さまざまな時代の縁(えにし)が錯そうして、しかも今日までつながっていて、歴史の霊妙さに打たれてしまいます。
参拝される方は、守矢家の大切なお墓と神籬(ひもろぎ)ですので、資料館の方にひとこと参拝希望を告げて、どうか清らかな気持ちで参拝していただけたらと思います。