こんにちは!yurinです。
大彦命の川柳将軍塚古墳からさらに奥へ200m、「姫塚古墳」の案内があります。
川柳将軍塚古墳についてはこちらにまとめていますので、読んでみてくださいね。
川柳将軍塚古墳よりも姫塚古墳の方が古く、さらに標高の高いところに築かれていました。
方墳です。
方墳は出雲式の四隅突出型古墳、あるいは大和の方形周溝墓の延長に考えられています。
いずれにせよ、姫の出自の由緒の古さを感じさせます。
姫塚古墳に立ち奴奈川姫(ぬなかわひめ)を追慕
山上の姫塚古墳をめざしてさらに、登ります。
「古墳の里川柳」の石碑もできて、木々も間伐されて手入れされていました。
ふかふかの落ち葉を踏み滲みて、里山を登るのは、実に気持ちのいいもの。
ようやくたどりついた姫塚古墳の山上からは、千曲川が流れていく、はるか越(こし)の国の方向まで見渡せます。
新潟方面を臨む山上
越の国を眺めて、永遠の眠りについた女性こそ、大彦命の妻の奴奈川(ぬなかわ)姫だったでしょうか。
『古事記』の奴奈川姫は、大国主命の妃となり、建御名方命(たけみなかたのみこと)の母になりました。
ですが、奴奈川姫はその一代限りでなく、ヌナカワの国でヒスイを手にして祭祀を行う巫女王が何世代もいたように考えられます。
そのような女性を、妻にしたのが大彦命だったのでしょう。
『先代旧事本紀』によれば、この時代の後の第13代成務天皇の時代に、大彦命の子孫が高志(こし)の国造(くにのみやつこ)が派遣されたとあります。
糸魚川市の田伏神社の伝承でも、「国造の市入命(いちいりのみこと)は、奴奈川姫の子孫の長姫を娶った」という伝承があり、『先代旧事本紀』と補完し合っています。
一方の、大彦命の妻となった奴奈川姫は、故郷の奴奈川(ぬなかわ)を離れても、たくさんの御子たちに囲まれて、幸せなひとときを過ごしたものでしょうか。
姫塚古墳、このような名称の古墳はとても珍しいです。
大彦命より、いっそう高いところに眠る高貴なお姫さま。
かけがえのない妻に先立たれて、彼女がふるさとの山々を見渡せるようにと、山上に葬ったのは大彦命の精いっぱいの心づくしでしょう(涙)
継体天皇のバックボーンになる皇族たち
大彦命の娘の御間城姫(みまきひめ)は、第十代崇神天皇の皇后になり、皇子は第11代垂仁天皇として即位します。
そして御間城姫の母こそ奴奈川姫だったのではないでしょうか。
御間城姫(みまきひめ)の兄弟が、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)で、四道将軍の一人です。
「ぬなかわ」の名を負っているのは、母の血筋によるものとみられます。
御間城姫の御子の垂仁天皇は、四道将軍の丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)の娘を4人、妃に迎えています。
その中の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)から生まれた皇子が第12代景行天皇です。
4人の娘の母までは『古事記』『日本書紀』は記していないのは、御間城姫(みまきひめ)と同じです。
ですが四道将軍の大彦命も、丹波道主命も、遠征先の越(こし)や丹後の女性を妻として御子たちが生まれ、天皇家に差し出した、と解釈するのが自然のようです。
そのようにして、大和朝廷の草創期には、各地の豪族の血筋を取り入れつつ、勢力を拡大し、安定した天皇制の基礎を築いたのが、四道将軍の役割だったのです。
大変な重責を担った皇族の方々でしたが、このようにして天皇制は根付いて、日本の国家は成立したと、『古事記』『日本書紀』は伝えています。
姫塚古墳の方が、川柳将軍塚古墳よりも年代的に古いので、大彦命よりも奴奈川姫の方が先に亡くなったものとみられます。
この女性の子孫から、古代有力豪族の阿倍氏、高橋氏、布施氏なども出たものとみられます。
そして孫の垂仁天皇の皇子皇女たちまで、北陸一帯に勢力を拡張して、後の継体天皇を輩出するバックボーンになったのは、確かでしょう。
継体天皇の母の振媛(ふりひめ)は、垂仁天皇の子孫とされています。
生まれ故郷を遠く離れたのは、さらに大彦命の方が、奴奈川姫よりもはるかです。
姫に支えられて、気候も風土も違う異郷で、己の任務を全うできたのです。
晩秋の小春日和の信濃路。彼女を巡る人々の明るい笑顔が浮かんでくるような里山です。