奈良の都の大女帝~天武天皇系の最後の孝謙(称徳)天皇~

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こんにちは!yurinです。

先日の古代史日和勉強会で、市川達也先生が、奈良時代の女性天皇『宝字称徳孝謙皇帝』を話されました。

第46代孝謙(第48代称徳)天皇です。

歴代の女帝ように、天皇の夫君や男子の皇子がなく、独身で初めて皇太子となり、僧の道鏡との仲もただならない噂があります。

果たして実像はどうなのでしょうか?

40代の人生の転換期から実力行使

市川先生と以前にお話しした時、「孝謙(称徳)天皇が好き」とおしゃっていたので、いったいどのようなところに惹かれるのか、とても興味がありました。

父の第45代聖武天皇と、藤原不比等の娘の母の光明皇后に男子の跡継ぎがいない状況(皇子は早世)で、両親の期待を一身に受けて、若い時はその両親に翻弄されたように思えます。

そして後半生は、僧の道鏡に翻弄されてしまった……その運命が哀れな女性のように思えたのですが……

市川先生は、ズバリ!

「変化する人物に惹かれる」

とおしゃっていました。

 

孝謙天皇の系図を見ますと、多くの皇子に恵まれたはずの天武天皇の子孫も、先細りでした。

大津皇子、長屋王など有力皇族が、謀反の嫌疑で、次々と粛清されてしまいます。

5代目の阿倍内親王(孝謙天皇)の代には、男子皇族はごくわずかになってしまっていました。

そしてその希少な男子皇族さえ、早世してしまいます。

毒殺のうわさもつきまといます(汗)

 

一方の阿倍内親王の有力な後ろ盾である藤原氏の側は、不比等の息子の藤原4兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)がそろって、盤石に見えました。

ところが「人生一寸先は闇」というように、はからずも流行(はや)り病(やまい)の天然痘にかかって、4兄弟全員があっけなく亡くなってしまったのです!

ちまたの人々は「長屋王の祟(たた)り」とうわさしました。

長屋王は、天武天皇の第一皇子高市皇子(たけちのみこ)の御子です。人々の怨念も大きかったようです。

藤原氏の氏寺の興福寺五重の塔と猿沢池

21才で初めて女子で皇太子となる

孝謙天皇は、歴代女帝10方(うち2方は重祚〔再び皇位につかれる〕)の中でも、初めて独身女性で皇太子になられた方でした。

21才です。

それまでの天皇は、夫君が天皇、または皇太子がすでにおられて、皇太子が即位するまでのつなぎとして、天皇になられたからです。

 

そして阿倍内親王(孝謙)は、32才で父の聖武天皇から譲位されて、第46代孝謙天皇となります。

その名のとおり親に孝を尽くし、ひかえめな女性、それが当初の孝謙天皇でした。

 

天平宝字2年(758)光明皇后の看病のために、孝謙天皇は、天武天皇皇子の舎人親王の御子の大炊王に皇位を譲りました。

第47代淳仁天皇(~764)です。

そして4兄弟の武智麻呂の息子の藤原の仲麻呂は、恵美押勝(えみのおしかつ)ともいうのですが、天武天皇の皇子の大炊王を擁して、権勢をほしいままにしたのでした。

 

淳仁天皇の父の舎人親王の母は、天智天皇の新田部皇女で、天智・天武の血筋をひくので、推挙する人々は多かったようです。

藤原氏の氏寺の興福寺五重の塔

父母を亡くし、40代で人生の転換期

……孝謙天皇42才の時、それまで懸命に看病し尽くしてきた母の光明皇后が亡くなります。

その時が、大きなターニングポイントになりました。

そこから孝謙天皇は変貌した、と。

 

母を失い、病にたおれた孝謙上皇のところに、おりしも僧の道鏡が現れたのです。

病気平癒を祈祷し、看病する道鏡を寵愛するようになったとされます。

それまでは父の聖武天皇、光明皇后、従兄の藤原仲麻呂の手中にあって、その意向に添って生きる人生であったのです。

 

ですが、両親が亡くしたときから、自分の意志で実力行使していく女性になっていたのでした。

次々と権力闘争の中で去っていく人々たちを、じっと見つめて生きて来たのでしょう。

壮絶な権力闘争をじっとみつめているうちに、40代になっていたのです。

彼女を守ってくれた聖武天皇の光明皇后もこの世にいません。

 

……としたら、自分で自分を守るしかないのです。彼女は強い女性になっていました。

光明皇后が亡くなると、淳仁天皇・藤原仲麻呂、孝謙上皇の関係は破綻していきました。

 

天平宝字6年6月、尼姿になった孝謙上皇が、詔勅(正式な天皇のお言葉)を発します。

女性として出家した天皇も初めてのことです。

 

「朕(われ)は出家して仏の弟子となりました。政事のうち恒例の祭祀など小さなことは今の帝(淳仁天皇)が行うように。国家の大事と賞罰の二つの大本(おおもと)は、朕(われ)が行うこととします。」

このように孝謙上皇は、政務の大事は自分がする、と宣言したのでした。

それほどすでに権力があり、従う人心もいたのですね。

 

ついに孝謙天皇は、藤原仲麻呂を謀反人として朝敵とみなしたのです。

実質、クーデターであった、といいます。

仲麻呂は近江国に逃走したものの、捕縛され殺害されました。

淳仁天皇は廃帝されて、淡路島に流されてしまいます。

そして逃亡を図ったものの失敗して捕まり、翌日に亡くなったそうです。

 

長らく孝謙天皇の意向で、天皇としてのおくり名は与えられず、廃帝あるいは淡路廃帝とよばれてきました。

明治時代になって、第39代弘文天皇(大友皇子)・第85代仲恭天皇とともに、第47代淳仁天皇として追号されました。

平和をのぞみ、主張を貫く奈良時代の中心人物

孝謙上皇は、称徳天皇として重祚(再び皇位につく)しました。

クーデターが成功したのは、淳仁天皇の後ろ盾になった藤原仲麻呂が専横をきわめて、周囲の反発をかうほどであったためとされます。

さらに仲麻呂は、白村江の戦いの敗北のリベンジをもくろんで、新羅と開戦寸前の状況でした。

安禄山の乱によって唐の支配が弱まったこの時期こそ、まさに新羅に一戦およぶべきと。

博多に軍船をそろえて、あと一歩のところで、開戦というところへ漕ぎつけていたそうです。

 

一方の孝謙天皇は和平第一で、反戦の旗頭であったそうです。

ここでの海外戦争が実行されたら、甚大な苦労を民衆に与えるものなっていたでしょう。

そう考えると、たとえ天武天皇系譜の最後の天皇になってしまっても、彼女は自分の主張を貫いた、強靭な女性に見えてきます。

 

政治は吉備真備、祭祀は仏教を重んじて道鏡を徴用して、二本柱で政権運営をしました。

道鏡に皇位を譲ることについても、儒教の禅譲思想の影響から、本気で皇位継承を考えていたようです。

 

天皇家の歴史も変えようとしたのでした。

実家の藤原氏すら頼りにせず、自分の選択した人物を重用しました。

 

宇佐八幡の神託を聞くために、和気清麻呂を派遣したのですが、結局、道鏡の皇位継承の神託は得られませんでした。

称徳天皇は怒って

和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)

姉の和気広虫を別部狭虫(わけべのさむし)

と改名して、配流したそうです。

こうした改名を、しばしば行うのが得意でした。

……ですが、最終的には今までどおりの皇統の継承を決断したのです。

 

称徳天皇の崩御後、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷されましたが、当時は相当に格式の高い寺院で、高僧として生涯を終えました。

 

市川先生は、淡々と史実を列挙する『続日本紀』の記述をもとに、孝謙天皇像を構築してくださいました。

『続日本紀』では、うわさされる道鏡との関係に言及するような記事は一切なく、男性社会に秀でる女性ゆえに受ける、口さがない後世の人々のうわさ話にいっそうの尾ひれがついたかもしれない、と。

 

二人が関係をもつには、道鏡が相当に高位な僧であった。

孝謙天皇も、道鏡と出会ったとき、当時の女性としては年を取り、出家をして、仏道にひたすら邁進していた、ということです(汗)

 

講談社学術文庫の『続日本紀』は、上・中・下の3巻からなります。

そのうちの「中巻」は、聖武天皇の天平15年(743)~称徳天皇の神語景雲3年(769)までです。

ほぼ孝謙天皇に関係する記事です。

 

さらに下巻も1章は称徳天皇です。

上巻の3分の1は称徳天皇の父の聖武天皇の記事です。

天平10年(738)に、阿倍内親王は皇太子になっています。

 

こうしてみると、奈良時代のほとんど中心のできごとを占拠したのが、孝謙(称徳)天皇といえるようです!!

奈良時代の天皇家の系図の中心にいます。周囲は著名人ばかり。

 

彼女は少なくも、両親や道鏡に翻弄されるような女性ではないことは、ハッキリしました。

『宝字称徳孝謙皇帝』は、生前の称(たた)名です。中国風の「皇帝」の尊号まであります。

天武天皇系譜の最後の天皇となる

もし天武天皇が、天上で見ていたら、自分の子孫が天皇の系譜から消滅していくのを、どのような思いで見つめたのでしょうか。

その歴史の運命の中で、孝謙天皇という女帝の実像に、さらに近づきたくなります。

『続日本紀』をもう一度丹念に読んで、解き明かしてみたい、そのように思うのでした。

 

質問タイムでは

「なぜ神道でなくて、仏教に救済を求めたのですか?」

という質問もありました。

当時の人々が、急速に仏教に入り、大きな仏像まで建立するのはなぜでしょうか?

聖武天皇は述べられます。

「三宝(ほとけ=ほとけ)の奴(やっこ)としてお仕え申し上げている天皇の大命(おおみこと=お言葉)として廬舎那仏像(るしゃなぶつぞう)の御前に申し上げます」

この時代に天皇は、天武天皇時代の現人神(あらひとがみ)でなく、仏の奴(仏に従う者)になっていたようです。

若草山からの東大寺

仏教が興隆した奈良の都は、80年の短い期間にもかかわらず、今も燦然と輝いて仏教寺院や仏像が私たちを魅了します。

東大寺大仏殿

自然と溶け込んだ奈良公園の散策もここちよいものです。

佐保の法華寺で、何気なく犬のお守りを求めたことを思い出しました。

光明皇后ゆかりのお守りでしたが、唯一の皇子が早世し、たった一人の娘にたくした思いも偲ばれてきます。

おどろおどろしい皇位継承の権力闘争が繰り返されたので、魂の救済を求めるには、仏教が必要だったのでしょうか。

皇統は、称徳天皇をラストにして、天武系から、天智系にうつり、現在の今上天皇まで続きます。

天武天皇の子孫たちが残した、奈良の都の寺院と仏像といえるのでしょう。

奈良時代の人物や遺跡への興味を深くしてくださった、市川先生の勉強会でした(大拍手)

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