こんにちは、yurinです。
初詣は長野と千葉の氏神さまへ初詣しました。
さらにもう1社、常陸の鹿島神宮に参拝しました。
常陸の国の鹿島神宮と、下総の国の香取神宮は、カシマの神・カトリの神として、2柱の神さまを東国鎮護の大神さまとして、一緒に語られることが多いです。
目次
出雲の国譲り武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭る鹿島神宮
『延喜式』神名帳で「神宮」と記されるのは「大神宮(伊勢神宮内宮)」「鹿島神宮」「香取神宮」の3社だけです。
鹿島神宮に武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)、香取神宮に経津主大神(ふつぬしのおおかみ)をお祭りします。
どちらも同じ方向にあって、自宅から車で2時間ほどかかりますが、なんといっても東国鎮守の神さまです。
千葉県の香取神宮に参拝することが多いですが、今年は、夫の仕事関係で、茨城県の鹿島神宮へ参拝しました。
香取神宮 初詣の様子
鹿島神宮
茨城県と千葉県の境界に利根川があります。
江戸時代に治水事業がなされるまでは、利根川は東京湾に注いでいました。
関東平野の東部は、太平洋から霞ヶ浦~印旛沼~手賀沼まで、広く内海でつながっていて、広大な「香取(かとり)の海」があったのです。
「かとり」は、『日本書紀』に「楫取」の文字で書かれるように「船の楫取(かじと)り」から来ているという説があります。
水上交通の要衝地に2つの神宮があります。
その香取の海には、東北方面から流れてくる鬼怒川や小貝川も注いでいました。
最奥の東京湾に近い千葉県の手賀沼の西端に、かつての港の「大津」の地名があります。
その内海の太平洋への入り口の両サイドを守護するように、北に鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、南に香取神宮(千葉県香取市)が鎮座します。
鹿島神宮 鳥居
香取神宮楼門
本殿
香取神宮の経津主神(ふつぬしのかみ)、鹿島神宮の武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、出雲の国譲りで名高い武勇の誉れ高い神さまです。
出雲の国譲りで、建御名方を信濃へ追い詰める
大国主命(おおくにぬしのみこと)は、いつしか葦原中国(あしはらのなかつくに)の強大な勢力になっていました。
出雲を中心に畿内から東日本へおよぶ大国です。
出雲大社 本殿(中央)
天皇家の先祖の、高天の原の勢力をしのぐほどです。
高天の原から派遣した天穂日命(あまのほひのみこと)も、天若彦(あまのわかひこ)も、大国主命に取り込まれてしましました。
高天の原の勢力にとって、ゆゆしき事態です。
それで天照大神(あまてらすおおかみ)と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、大国主命に対して「国譲り」の要求をしました。
出雲の国譲り 稲佐浜
使者として経津主神(ふつぬしのかみ)に、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を副えて遣わしたのです。
『日本書紀』では次のようにあります。
二(ふた)はしらの神、ここに、出雲の国、五十田狭(いたさ)の小浜に、到りて、すなわち十握剣(とつかのつるぎ)を抜きて、倒(さか)しまに地に突き立てて、
その鋒端(さき)に踞(あぐみまし)て、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)に問いての曰(のたまわ)く、
「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、皇孫(すめみま)を降(くだ)しまつりて、この地(くに)に君臨(きみとしたま)わんとす。
かれ、我(われ)二(ふたり)の神を遣わし、駆除(はら)い平定(しづ)めしむ。汝(いまし)が意(こころ)如何(いか)に。避(さ)りまつらむや否(いな)や」
(二柱の神は、出雲の五十狭の小浜(稲佐浜)に降って、十握剣を抜いて、刃先を上に向けて地面につき立てたのです。
その中に膝を立ててどっしりと座り込んで、大国主命に断固とした要求を突き付けました。
「高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、皇孫(天孫と同じ、天照大神と高皇産霊尊の子孫)を降臨させて、この葦原中国(あしはらのなかつくに)の君主として、統治させるご意向です。
それで我々二神を遣わして、国内を平定しているのです。あなたはそれに従う気持ちがありますか?退去するつもりがあるのか、ないのか?」と。
武甕槌神は、一方的な要求を突き付けたのですが、大国主命の御子の事代主命(ことしろぬしのみこと)は、「天つ神の仰せに従いましょう。」と父を説得し、親子は退去したのでした。
一方の『古事記』では、『日本書紀』と、少し相違があります。
まず高天の原から派遣された神は、建御雷神(武甕槌神)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)の二神で、経津主神は見えません。
さらに建御雷神の要求に対して、事代主命と大国主命は応じたのですが、大国主命の御子の建御名方神だけは、理不尽な「国譲り」の要求に反対し、抵抗しました。
しかし武甕槌命との力比べに敗れて、信濃の諏訪湖まで追い詰められます。
そして「ここから出ない」という約束で許されました。
神武天皇軍に、神の剣「布都(ふつ)の御魂(みたま)」を授ける
『古事記』では、その後、再びタケミカヅチノミコトが出てくるまで、時間が流れます。
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと=のちの神武天皇)は、南九州を発して、筑紫から瀬戸内海を通り、いよいよ大和へ入ろうとします。
しかしここで先住する長髄彦(ながすねびこ)の抵抗にあって、退却を余儀なくされたのでした。
敵の弓矢が当たり、兄の五瀬命(いつせのみこと)を、亡くしてしまいます。
紀伊半島を南下して、別の方面からの大和入りを目指すことになります。
しかし険しい熊野山中で、神武天皇の皇軍は、さすがに疲労困憊(こんぱい)して意気消失してしまいました。
……その時に現れたのが高倉下(たかくらじ)です。
高倉下を祭る高倉結御子神社(名古屋市)
天照大神の御心を受けて、タケミカヅチの神から「神の剣、フツの御魂(みたま)」を賜り、神武天皇に授けたのです。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)、応(こた)えて申さく、
「予(やっこ)行(まか)らずといえども、予(やっこ)が国を平(む)けし剣を下さば、国、自(おの)ずからに平(む)けなむ」と申す。
天照大神の曰(のたまわ)く、「諾(うべ)なり」とのたまう。
時に武甕槌神、すなわち高倉下(たかくらじ)に語りて曰(おたまわ)く、「予(やっこ)が剣、号(な)を韴霊(ふつのみたま)という。今まさに汝が庫(くら)の内に置かむ。取りて天孫に奉れ」とのたまう
(タケミカヅチノ神は、答えて申し上げました。
「私が行かなくても、自分がこの国を平定した時の剣を下せば、国も自然と平定することでしょう」と。
天照大神も「その通りですね」と仰せになりました。
そしてタケミカヅチの神は、タカクラジに語りました。
「自分の剣は、その名をフツノミタマと言います。今、あなたの倉の中に置きます。それを持って天孫に献上するように」と仰せになったのです)
布都御魂大神を祭る石上神宮(天理市)
神武天皇軍は、神の剣によって起死回生し大和入りを果たす
武甕槌神は、高倉下を通じてフツノミタマの剣を磐余彦尊(いわれびこのみこと)に献上しました。
それによって、皇軍は息を吹き返しました。
起死回生の神の剣となりました!
さらに八咫烏(やたがらす)の先導を得て、ついに長髄彦の軍を打ち破りました。
念願の大和入りを果たしたのです。
神武天皇の東征に大きな功績をもたらしたのが神の剣「フツの御魂(みたま)」でした。
『日本書紀』でも、ほぼ同じような逸話が語られています。
ここでの高倉下や長髄彦は何者か?ということについては、少しずつ鮮明にしていきたいと思います。
皆さんもいろいろ思索をめぐらしてくださいね。
ここでは、その神の剣を、高倉下(たかくらじ)を通じて授けたのが武甕槌命(たけみかづちのみこと)であった、ということに注目したいと思います。
「フツの御魂(みたま)」の「フツ」は、不滅の霊力を称えたことからくる名称とされます。
三種の神器の八咫(やた)の鏡の別名に「真経津(まふつ)の鏡」の名称もあります。
武甕槌神は、その神の剣を携行することで、剣の霊力を身に着けた神霊と同等になっていたのです。
つづく