さらしなの里の古社 武水別神社~北信地方の随一の名神大社【1】のつづきです。
目次
神八井耳命の子孫の動向が知れる阿蘇神社の『阿蘇氏系図』
『阿蘇氏系図』を拝見して「武水別命(たけみずわけのみこと)」だけでなく、日本全国に広がる神八井耳命の子孫の動向も見えてきたのです!
おりしも古代史学者の安本先生の講座では『先代旧事本紀』に入っていて、今まで漠然としていた氏族の系譜が、少しずつ鮮明になってきた矢先でした。
日本の古典と、諸家の系図は、決して対立するものでなく、少しずつ相違しているところもあるのですが、そこにこそ真実味があります。
そして全体の氏族の系譜の根幹は揺るがずに一致している、と確信できました(拍手)
九州の熊本県に伝わる『阿蘇氏系図』の中に、長野県の「武水別命」など、造作できるはずもないです。
武水別命の父や御子たちは、茨城県や千葉県の国造となっています。
吾妻峠や碓氷峠を越えて関東平野に進出しているようです。
そして群馬県から利根川を下れば、千葉県です。
一方で、武水別命の兄弟の武沼田命の孫が、大平さんの先祖の島田臣(しまだのおみ)へと続きます。
どの人名もそれぞれの地域で確認できました。
大平さん(旧姓島田さん)は神八井耳命のご子孫で、こちらの記事でも紹介しています。
古典や系図の造作を主張し、複雑な創作過程や理論を展開しても、説得力は希薄です。
それぞれの地域で、先祖の系譜をそのまま書き残して伝えようとしたもの、と素直に受け入れて、シンプルな古代史像を構築した方が、誰にもわかりやすく、説得力もあるのではないでしょうか。
飯綱山と冠着山(かむりきやま)を結ぶ参道
大晦日の紅白歌合戦を見終えてすぐに、武水別神社への初詣に向かった年もありました。
年をまたぐ「二年参り」と言っています。
すでに参道はたくさんの屋台が出て、人々で賑わっています。
息子が小さい時は、わたあめや広島焼きを楽しみにしていました。
「ぶっかき飴」という、飴も必ず買い、うづら屋さんという茶店で、甘酒とおでんも必ずいただきました。
うづら餅が知られています……
息子が巣立ってしまって、初詣もついに夫婦二人の参拝になっています。
今年は、新年の賑わいの時期を過ぎてから、初めて落ち着いて武水別神社を参拝しました。
本殿
神楽殿と境内
八百万の神々の社
「更科(さらしな)川なんて知らなかったね」
と、境内のわきを流れる小川の名称に改めて気づいたのでした(汗)
県の天然記念物の社叢の説明板も、私が初詣に訪れるようになって、30回以上ですが、初めて読みました(大汗)
初詣や七五三など、むしろ何気ない日常生活にすっかり溶け込んでいたお社になっていたのでした。
夫の親せきが神職をしていました。
山麓にある神社というより、川添いの平地にあり、京都の下鴨神社のタイプの神社のようです。
社殿は北向きで、川柳将軍塚古墳のある茶臼山とその背後の飯綱山を遥拝します。
八幡(やわた)の町の北が、夫の実家のある稲荷山町(いなりやままち)。
飯綱山を飯綱稲荷明神として勧請した社があることから町の名称です。
安本先生が、
「大彦命の鉄剣が出て来た古墳と同じ名称ですね」
と言ってくださった町の名で、それから格別に趣き深く感じるようになりました(微笑)
初詣にこれほどの晴天に恵まれまたのも珍しいです^^
正面の鳥居の上に飯綱山を仰ぐことができました。
初めて気づいて驚きました(大汗)
……さらに参拝の帰りには、今度は反対方向の鳥居の正面に冠着山(かむりきやま、姨捨山ともいわれる)に気づいたのです!
つまり参道を歩くと、行きには正面に飯綱山を拝み、帰りに冠着山を拝む、というわけです。
正面鳥居からの冠着山(かむりきやま)
正面鳥居と社殿から遥拝する飯綱山
このような神社の配置を認識して、古代人の自然崇拝にあらためて感動しました。
飯綱山の手前の茶臼山には、大彦命のお墓とされる布施神社や川柳将軍塚古墳もあります。
……地図を出して「飯綱山」と「冠着山」を直線で結んでみました。
さらに面白くなってその直線を南の方へ伸ばしてみました。
すると、なんと!諏訪大社の上社の本宮・前宮付近を通り、あの諏訪信仰聖地の「守屋山」へ当たったのです!
これって、偶然かしら?
川柳将軍塚古墳や武水別神社は、やはり強大な諏訪信仰の勢力を意識して、対峙するように綿密に配置されたのでしょうか?
レイラインという言葉があります。
古代の遺跡には、直線的に並ぶように構造されたものがある、という仮説のもとでの、遺跡群が描く直線をさします。
日頃あまりスピリチュアルには入りこまないタイプと思っていますが……(汗)
少なくも、武水別神社の鳥居の正面の飯綱山と、背後の冠着山から、古代人の山岳信仰が知れるのは確かです(拍手)
高良社から宗像三女神を祭る水沼氏
鳥居の入り口近くに、高良社があるのもめずらしいです。
覆(おおい)堂に囲まれた本殿は、16世紀の頃の造営で、長野県の県宝になっています。
神社の祭神の比咩(ひめ)大神は、宗像三女神とされます。
『日本書紀』の天の安河の誓約(うけい)の段につぎのようにあります。
日神の生(あ)れまさる三(みはしら)の女神をもては
(略)道主貴(みちぬしのむち)と曰(もう)す
これ筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らが祭(いつきまつ)る神、これなり
福岡県久留米市には筑後国の霊場の高良大社があり、もとは神社のゆかりの水沼(みぬま)氏が奉斎していた神ともされています。
筑後国一の宮 高良大社
武水別神社の大祭の「大頭祭(だいとうさい)」は、12月に施行される「にいなめさい」ともいわれるお祭りです。
北信地方を代表する大きなお祭りで、大変な賑わいがあったそうです。
夫も子供時代に屋台が並び楽しみにしていたそうです。
このお祭りで高良の神も重要な役割を果たすそうです。
筑後川とおなじように大河川の信濃川(千曲川)の水運に因んで祭られた神さまでしょうか?
あらためて冷静にこの神社と向き合ってみると、
「信濃の国のさらしなの里から、日本の歴史が見えてくる」
そのように言いたくなるほど、いろいろ考えさせるところのある神社のようにと思えてきます。
……
さて、大和朝廷側がいかに諏訪の神さまを恐れていたか、信濃の古社からは感じられます。
その諏訪の神さまの父君が、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)です。
今週の古代史日和勉強会では、その大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)をお祭りする出雲大社について、えみ子先生がお話しします。
日本全国だけでなく、海外の神社や遺跡まで巡って、経験も知識も豊富です。
明るく楽しく日本の神社を語ってくださることでしょう。
出雲大社について興味ある方、お気軽にお越し下さい。お待ちしています。