邪馬台国は筑紫にある~畿内説への疑念~

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こんにちは!yurinです。

おととい日曜日は、古代史日和勉強会で講師をしました。

テーマは「邪馬台国」。

「邪馬台国は筑紫の国」で、質疑応答は盛り上がり、急きょ1時間延長したのですが、一人も帰る方がいらっしゃらないほど、みなさん熱心で感激しました。

百花繚乱の「私の邪馬台国」

『季刊邪馬台国』の編集長を30年以上なされてきた安本先生は「邪馬台国は1人一説」とおっしゃるほど、数々の邪馬台国論が提出されてきました。

やはり古代史の花は「邪馬台国」でしょうか?

 

「志村先生、伊勢神宮の勉強会の時より、よほどノッていましたよ!」

と、勉強会が終わると、早速に声をかけてくださいます(笑)!

実は、今回の勉強会では、福岡県飯塚市や嘉嘉麻(かま)市からお気に入りのスイーツを取り寄せるほど気合が入りました!

参加されたみなさんからもたくさんお菓子を頂戴し、恐縮でした。

 

さて、邪馬台国ですが、1987年刊の『邪馬台国ハンドブック』(安本美典氏著)では、「邪馬台国」の候補地がまとめてあります。

その数は近畿地方・四国地方・四国地方・海外の36か所もありました(汗)!。

いずれも著名な先生のご説です。

さらに「投馬国」についても、九州・中国・近畿地方の13か所が掲載されています。

 

その後、数十年の月日は流れましたが……「邪馬台国」の候補地は集約されて少なくなるどころか、ますます増え続けてきたのでした(大汗)!!

インターネット情報が開示されると、ついに沖縄から関東・東北地方までに及ぶようになっています(苦笑)

邪馬台国畿内説への疑念!

邪馬台国畿内説には疑念が生じます。

もともと『魏志倭人伝』に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中です。

ですが、畿内説では『魏志倭人伝』に記された方角も「都合よく」読む解釈も許容されています。

例えば、『魏志倭人伝』に

その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある。男子を王としている。その官に狗古智卑狗(くくちひこ)がある。女王に属していない

と書いてありますが、畿内説で狗奴国を考えようとすると、奈良県の南は紀伊半島の南部の熊野地方です。

ところが、そこに女王国に敵対する勢力が見当たらないので、「南」を「東の誤り」として解釈します。

そして愛知県の濃尾平野を狗奴国にする解釈を考え出したのでした!

 

「狗古智卑狗(くくちひこ)」は「菊池彦」で、九州の熊本県の菊池川に因んだ名称、とされてきた解釈も一掃されてしまいます(汗)

濃尾平野に「ククチヒコ」なるものを探すようです。

あれ?濃尾平野の弥生時代の最大級の環濠集落の朝日遺跡は、確か弥生時代中期の遺跡と考古学者の先生とおっしゃっていたはずで、卑弥呼と争った狗奴国とは、時代が合わないみたいですけど……?

 

さらに、『魏志倭人伝』には

女王国の以北には一大率(いちだいそつ)をおいて諸国を検察させる。……つねに伊都国に置いて治めさせている

とありますが、畿内説で考えると、奈良県の北の滋賀県や福井県に伊都国があるというのでしょうか?

 

……このようにささっと読んだだけでも『魏志倭人伝』にバリエーションを持たせた解釈が許容されるなら、……と安心して!いっそうさまざまな解釈が出現して、まさしく邪馬台国は百花繚乱、咲き誇っているのが現状です(~~。)

ですから、やればやるほどに迷路に入り込む方も多いのではないでしょうか?

日本の古典から見るとスムーズな流れで九州説

しかし一方で、日本の古典を素直に読めば、『魏志倭人伝』の邪馬台国問題もスムーズな解釈がでてきます。

『先代旧事本紀』「国造本紀』をみると、邪馬台国時代から100年ほど後の国作りの様相が見えてきます。

河川を上手にした国作り、そして神道祭祀が重きをなした時代の名残の神社や古墳や地名がヒントになります。

 

また、安本先生の「統計学的年代論」によって、『日本書紀』の年代を修正します。

そして邪馬台国時代のあとに、神武天皇の筑紫から大和への遷都が行われたと考えます。

筑紫 邪馬台国 ⇒ 神武天皇 大和へ遷都 

 

さらに「高句麗の好太王の碑文」によって、4世紀末の倭国の朝鮮半島進出を知ることができます。

それは神功皇后の活躍年代と符合します。

天照大神 ⇒ 神武天皇の東遷 ⇒ 神功皇后の三韓征伐

この古典のスムーズな流れの通りの古代史像が、多くのことをいちばん矛盾なく説明できるのではないでしょうか。

 

邪馬台国畿内説の欠点は、何といっても、日本の文献との矛盾です。

もともと第二次大戦後の古代史オーソリティーは、『古事記』『日本書紀』などの初期天皇の時代の記事には、歴史資料的価値はない、とうところからのスタートでした。

日本の国土から出土する遺跡・考古学の遺物を、中国文献によってのみ解釈する、というスタンスなので、古典の内容などは、歯牙にもかけないようです。

そこから一歩踏み出して神武天皇実在を認める人々さえ、畿内説に固執する方々がいるのです。

 

ですが、邪馬台国時代の後に神武天皇の東遷が行われたとすると、畿内大和に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷する意味がわかりません。

そこで神武東遷は、卑弥呼の時代の前もってくる考えも出てくるのですが、

神武天皇 ⇒ 女王 卑弥呼の時代 ⇒ 神功皇后

すると『古事記』『日本書紀』には、神武天皇と神功皇后の間に「女王」が即位した記事がない、という矛盾がでてきます。

ということで、こうなります。

神武天皇 ⇒ 女王 卑弥呼の時代 ⇒ 神功皇后 日本の古典に女王の該当者なし✕

「纒向(まきむく)」は日本の古典に出てくる地名

質問の時間には、

「纒向遺跡と、北部九州の遺跡は平行するのでしょうか?」

という質問がありました。

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の「まきむく」の地名は、『魏志倭人伝』の地名などにはいっさい出てこない地名です。

むしろ『古事記』『日本書紀』の第11代垂仁天皇の「纒向の珠城(たまき)の宮」、第12代景行天皇の「纒向の日代(ひしろ)の宮」と記されます。

第10代崇神天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)の宮も近いです。

 

四道将軍や日本武尊の遠征が記されているのですから、東海の土器が出てくるのも、古典を実証しているという解釈をすればそれですみます。

いわゆる歴博年代による箸墓古墳の年代も確実な年代ではないようです。

 

4世紀築造とされてきた、平地に作られた箸墓古墳が、3世紀に造られたとすると、それまで4世紀築造とされてきた桜井茶臼山古墳など、その他の古墳も次々と前倒しされます。

すると5世紀の応神天皇・仁徳天皇陵の時代は動かせないので、「空白の4世紀古墳時代」となってしまう、という不自然さもでてきます。

どうにもこうにも次々にモグラがでてきて矛盾につきあたるのが、邪馬台国畿内説のように思われるのですが……

 

中国の『新唐書』(中国唐代の正史。1060年)では次のような記述があります。

日本は、古(いにしえ)の倭の奴(な)なり……その王……彦澰(ひこなぎさ)に到るまで凡(およ)そ三十二世、皆「尊(みこと)」をもって号と為し、筑紫城(つくしじょう)に居す

彦澰(ひこなぎさ)の子、神武たち、更(あらため)て天皇をもって号と為し、治(みやこ)を大和洲(やまとしゅう)に徒(うつ)す。

太字:古代史日和

日本は、古くは倭の奴国であった。
その王は、ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトにいたるまでおよそ、三十二代、皆「尊」をつけてお呼びして、筑紫の城に住んでいた。
ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの子、神武がついて、あらたに天皇と呼ぶようになり、都を大和の国に移した。

この文章で、神武天皇が大和へ東遷する以前に、天皇家の先祖は「筑紫城に居す」という一文は、真実を伝えたものではないでしょうか。

……

参加者の皆さまと、質疑を交わしながら

「弥生時代とは」「次は縄文時代と弥生時代について聞きたい」「神功皇后も」「熊野神社を福岡でよく見かけますが」「鉄の入手や経路は」「出雲との関係」

……など次々に興味の対象が広がり、古代史は本当に面白い、と感じさせていただけました。

参加者の方にお礼申し上げます。

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