こんにちは!yurinです。
今年最後の古代史日和勉強会「饒速日尊(にぎはやひのみこと)と銅鐸」のこちらの記事のつづきです。
銅鐸の命脈を残した祭祀
出雲や畿内を中心に興隆した銅鐸でしたが、天皇家が残した書物の記憶からは消滅してしまいました。
……ですが、ひっそりと命脈を保ってきたこともわかってきました!
長野県塩尻市の小野神社や諏訪大社の鉄鐸祭祀です。
小野神社
『古事記』『日本書紀』に出てこない銅鐸ですが、上代古典では唯一『古語拾遺』の天の岩戸の段にでてきます。
『古語拾遺』を採用した『先代旧事本紀』も同様に記されます。
天照大神がこもった岩戸の前で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が「鐸を付けた矛」をもって踊った、とあります。
平安時代の『延喜式四時祭』(お祭りの仕方の詳細)の鎮魂祭に奉納する品物の記述の中に、「太刀、弓、箭(や=矢)、鈴、佐奈伎(さなぎ)」です。
佐奈伎はすなわち鐸で、鉄鐸とあります。
銅ではなく、鉄の鐸(さなぎ)となって、使用されていたのでした!
小野神社や守矢神長官家に残る鐸(さなぎ)の矛には、ふさふさ付けられた紙垂(しで)の中に、小さな鉄鐸が5~6個、矛竿(ほこさお)の先端に取り付けられて、特別の神事のさいに、鳴らされているのでした。
大型化した「見る」銅鐸は消滅しまいました。
ですが銅鐸な当初の10㎝ほどの、小型のタイプの「聞く」機能をもたせたタイプの銅鐸祭祀は残ったのでした。
それは縄文時代の土鈴にもさかのぼるものでなかったでしょうか。
小野神社や諏訪大社の鉄鐸についても、前にブログで書きましたので、参照していただければ幸いです。
これもまた、饒速日尊とともにくだった思兼命(おもいかねのみこと)の一族とか関わるのかもしれません。
鉄鐸を手にして踊ったウズメノミコトは、思兼命(おもいかねのみこと)とともに「岩戸開きの神々」として、お祭りされています。
以上のようにみてくると、もはや考古学の発掘状況は、相当に明らかになっていることがあります。
ですから、ひたすらお金をかけて掘るのではなく、古典や神社も合わせて、もっと総合的に「解釈」することに、てまひまをかけるべきではないか?という思いがしています。
平成のラストに
勉強会の始まりとラストにいただいた、参加者の方々の古代史への思いや疑問をお伺いして、思索を深くし、古代史の広がりと楽しさを感じました。
「長岡の河井継之助ゆかりの地から佐渡へ渡り、海から彌彦神社を見ました」
「物部氏や葛城氏とは?」
「ホツマツタエを読んでみましたが」
「街道歩きが趣味で、諏訪をめぐってきました」
「和歌山をめぐり名草刀湖(なぐさとべ)の本や伝承に出会い感激しました」
「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社で、物部氏への信仰の深さを感じました」
「縄文から弥生奈良時代まで、古代史はすべて面白いです」
「ニギハヤヒは夢がある」
「荒神谷と淡路島の兄弟銅鐸に感動」
「天御陰命の系図のわきに天目一箇とありますが」
「柳沢遺跡のある中野市に倭(やまと)村がありました」
……
まさしく柳沢遺跡から5分の地が、ご出身地という方も初めてご参加くださり、うれしかったです。
今年最後の勉強会では、皆さまに窮屈な思いをさせてしまい恐縮でした。
新しい年の勉強会の始まりは、ゆったりと大きな部屋をご用意できました。
市川先生の「藤原不比等」を予定しています。ぜひ、足をお運びくださいね。
→この勉強会は終了しました
おりしも今回の勉強会の翌日は天皇誕生日で、天皇陛下のお言葉をお伺いしました。
先祖伝来の長い日本の歴史を背負ってきたお方の、一つ一つのお言葉の重さと、それだからこその有難さを感じて目頭が熱くなりました(拝)
その中でも、
「平成が戦争のない時代として終ろうとしていることに、心から安堵しています」
というお言葉が深く染み入ってきました(大涙)
このような日本の古代史を語り合う勉強会が、末永く続くような平和を願って、今年の結びとしたいと思います。
今年1年、古代史日和のサイトや勉強会にお越し下さり、本当にありがとうございました。
お一人ずつの力が合わさることで、より良い古代史像の構築に近づき、古代史の幅広い面白さを実感できた1年でした。
心からお礼申し上げます。
どうか良いお年をおむかえくださいますように。