景行天皇「うきはの宮跡」オリーブそよぐ風景との出会い【2】

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景行天皇「うきはの宮跡」オリーブそよぐ風景との出会い【1】のつづきです。

3.オリーブ畑の景行天皇石碑に平和を祈って

『日本書紀』の記述にちなんで、浮羽町浮羽には
「浮羽島」の御所跡の石碑が建立されています。

石碑の横に、うきは市教育委員会の案内板がありました。

 

日本の古い正史、『日本書紀』や8世紀にできた
『風土記』には次の説話が記されています。

景行天皇18年8月(およそ1900年前)、九州御巡行の時、
天皇は八女からこの地に出になって食事をなされましたが、
お料理番たちは盃をもってくるのを忘れていました。

天皇は、「惜(あたら)しきかも、わが酒盃(つき)はや
(惜しい事をしたものだ、私の盃を忘れたとは)」と嘆かれました。

その頃、さかずきを「つき」と言っていました。

それ以来この都を「宇枳波夜(うきはや)」の郡とよび、
なまって生葉、浮羽と呼ぶようになり、村名・郡名・町名のもととなりました。

ここには天皇の杖が根付いたという逆杉(さかすぎ)があって、
台風や落雷で枯れても住民が植え継いで大切にしてきました。

浮羽の地が古代から中央の史書に記されていることは意義深いことでしょう。

(太字:古代史日和)

 

景行天皇が浮羽の地へ訪れたことは
『豊後国風土記』『肥前国風土記』にも記されています。

おりしも杉の木立の合い間から、日の光がさしこんで、
景行天皇のご威光が偲ばれました。

 

住民が大切に植えついできたという、杉と石碑を囲むように、
周囲のみごとなオリーブ畑の光景は、心に響くものでした。

4.オリーブに平和をたくして

日本で、このように広がるオリーブ畑をみたのは、初めてでした!

「島原にもありますよ!」と、石碑以上に!?オリーブ畑に感激している私を見て、
むしろ見慣れた光景になっている河村先生は驚いた様子です(微笑)。

 

オリーブ畑を背景に、景行天皇の「浮羽島」の石碑……
なんか、よかったんです!。

じっと石碑を見つめる河村先生まで、風景にマッチしていたので、思わずパチリ。


石碑を見つめる河村先生

背後の耳納連山の緑は深く、茶色の地肌が際立ったギリシャと違って、
一面を覆う緑の下草も青々しています。

耳納連山に沈む夕日を浴びてキラキラ輝くオリーブの畑の風景が、
なんとものどかな平和な気持ちにしてくれたのです。

 

福岡で初めての講演会を無事に終えて、短い時間でもこちらの方々とふれあい、
計り知れないご教示をいただけました。

ここからまた勉強して、また新たな古代史像の構築を
深めていけそうな希望もわいていたようです。

 

景行天皇は、東征に赴く日本武尊を送り出すに際して、

どうか、深謀遠慮をめぐらして、邪悪な者たちの心を探り、反逆者を洞察して威光をしめしなさい。

徳によって懐柔し、武力に頼らずに、自然に従ってくるようにするのです。

と、諭(さと)しました。

 

『古事記』で「言向(ことむ)け和平(やわ)す」、
すなわち「話し合いで平定する」というのは、
大和朝廷の基本スタンスであったように見られます。

 

景行天皇は、浮羽の地から、大和へ帰還しました。

景行天皇の九州巡行のラストの地での、オリーブ畑を思い出しながら、
永久の平和を祈らずにはいられません。

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