千余戸の伊都国が有力国として認められていたのはなぜ?

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こんにちは!yurinです。

いにしえの伊都国とされる、糸島市を訪ねて、神話と『魏志倭人伝』の思索が広がります。

 

遠賀川・筑後川・那珂川の中心地から離れて、西方には糸島平野があります。

いにしえの伊都国とされる地域です。

弥生時代の北部九州の開拓を進めたのは?

北部の海岸沿いは、博多平野と続いていますが、高祖山(436m)の山塊に隔てられて、南は雷山のある背振山系が連なって、唐津平野を仕切っています。

豊かな農村風景が広がり、落ち着いた気持ちがする地域です。

糸島半島まで陸続きになっていますが、古代には、糸島水道という海峡があって、島として隔てられていたそうです。

 

東側の今津湾に浮かぶ能古島を隔てて、福岡湾となります。

室見川(むろみ)・那珂(なか)川・御笠(みかさ)川などの流域には、輝かしい奴国の歴史を忍ぶ数々の遺跡があります。

 

東の付け根のところは、福岡市西区になっていますが、「今山」(80m)という小さな山があります。

いにしえの奴国との境界付近です。

「今山」の玄武岩を利用して製作されたのが、今山製石斧(せきふ)です。

筑豊地域の笠置山の石材を利用して製作された「立岩式石包丁」とともに、北部九州の弥生時代の始まりに、開拓を進めた工具を製作したのが、この二つの地域です。

福岡県西区の今山 今山製石斧
筑豊地域の笠置山 立岩式石包丁

弥生時代の北部九州の開拓を進めたのは、今山製石斧(せきふ)と立岩式石包丁

 

考古学者の寺澤薫氏は、「今山石斧と立岩石包丁の流通ルートが、鉄器の流通ルートにも重なっていったのではないか」という見解を述べておられます(『日本の歴史2 王権誕生』)。

 

伊都国の戸数は千余戸です。

一方で末羅国は四千戸と記されます。

『魏志倭人伝』での末羅国は、漁労を営む人々の記述が目立ちますが、その戸数からは、玄界灘に注ぐ松浦川の流域に広く農地を開拓していたようにみられます。

それに比べて伊都国の戸数が少ないことから「1万戸」の誤りなどの説もあります。

 

ですが、伊都国が有力国として認められていたのは、弥生時代の当初から石器や鉄器の生産流通ルートを確保していたからとも考えられます。

「一大率(いちだいそつ)」は大宰府の前身にもなった?

伊都国には特別に「一大率(いちだいそつ)」を置いて、他の国々を取り締まっていたのでした。

『魏志倭人伝』には次のように記されています。

代々(よよ)王あり……郡使往来するとき、つねに駐(とど)まる所なり

(代々にわたり、王がいる。……帯方(たいほう)郡から派遣された使者が、常に駐在している場所である。)

 

女王国より以北には、特に一大率を置きて、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚(いたん)す。

常に伊都国に治す。国中においては、刺史(しし)のごとき者なり

(女王国から北の地には、一大率を置いて諸国を取り締まらせている。
諸国もこれをおそれはばかっている。その官職は常に伊都国に置かれている。中国では州の長官にあたる)

「一大率」は、大宰府の前身であったという説もあります。

 

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