奴国の都は那珂(なか)川町安徳台

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こんにちは!yurinです。

邪馬台国を求めて筑紫の国へ来てみると、そこではむしろ「金印奴国」の大きさを感じることがしばしばでした。

その奴国の都の候補地にあげられるのが那珂川町の安徳台。

那珂川の中流です。

ここから川沿いの道をのぼり峠を越えると、そこは神崎・吉野ヶ里遺跡のある筑紫平野が広がります。

『季刊邪馬台国』で「奴国の都は那珂川町安徳台」を知る

今から28年前の『季刊邪馬台国』41号。1990年の春号で藤島正之氏が書かれた「奴国の都は福岡県那珂川町の安徳台である」を読みました。

北部九州の弥生時代を代表する遺跡は、博多平野中央部を貫流する、御笠(みかさ)川流域の須玖岡本遺跡があがります。

「弥生銀座」の名称もあるほど、周辺は脚光を浴びます。

普通に考えれば、その付近が金印奴国の都であるように思われます。

 

一方でこうした論文を読んで、奴国の都について別の考えも知りました。それはおおよそ次のような説でした。

二万戸を要する奴国の規模を考えると、御笠川と那珂川流域の旧那珂郡のほかに、室見川流域に栄えた早良国も含めた方がふさわしいのではないか、すると須玖岡本遺跡のある丘上は、むしろ「辺境」になってしまう。
それで、その後の歴史でも、要地として出てくる、那珂川町の安徳台こそふさわしい。

というものでした。

 

なるほど確かに畿内大和の飛鳥や山の辺の道の古墳や神社も、決して現代に一番栄えている都市部にあるのではないのです。

都市の雑踏から離れた静かな土地に、大和朝廷の始まりの時代の遺跡はあります。

治山治水が十分に行われない古代において、農耕の開拓や集落の形成は、海岸から離れた内陸部の方が、適切で安全であったようです。

 

考古学者の関川尚功先生は

「海岸の近くは敵に襲われるので危険」

とおっしゃっていました。

弥生時代の戦死者の遺骨は、北部九州ではまずは玄界灘沿岸に集中します。

どの地方でも、河川の中流部に古代の中心都市があることが多いのもそうした理由からでしょう。

それで奴国の都が那珂川町の安徳台というのも、納得できるものでした。

その地名が確かに脳裏に刻まれたのです。

斉明天皇~安徳天皇ゆかりの安徳台

「安徳台」の名称は、81代の安徳天皇にゆかりの地名です。

平安時代の末、源平合戦の際に都を追われた平家は、ついに平清盛の娘の中宮徳子が生んだ、幼い安徳天皇と三種の神器を奉じて、筑紫の国まで都落ちしたのでした。

 

『平家物語』巻八で次のようにあります。

平家は筑紫に都を定め、内裏(だいり)造らるべしと、公卿(くぎょう)詮議(せんぎ)ありしかども都も未だ定まらず、

主上はその頃岩戸の諸卿(しょぎょう)大蔵の種直(たねなお)が宿所にぞましましける。

(都落ちした平家は、筑紫に都を定め、御所をお造りのなられるのがよろしいでしょう、と公卿たちで話し合いをしたものの、都は定まりませんでした。
安徳天皇は、その時、(那珂川町安徳台の)岩戸の地にある、太宰少弐(大宰府の次官)大蔵の種直(たねなお)の館にご滞在されていました。)

 

内裏は山の中なりければ、かの木の丸殿もかくやありけむ、となかなか優なる方もありけり

(そのお住まいは山中であったので、あの斉明天皇と天智天皇ゆかりの木の丸殿も、このようであったものかと、かえって趣き深く思われたりもしたものです)

京の都の内裏と比べると質素であったとみられますが、かりにも大蔵種直は、筑前・肥前・豊前・対馬・壱岐の「三前二島(さんぜんにとう)」の太守でした。

 

安徳台は、第37代斉明天皇が大和の飛鳥から筑紫へ遷都した時、「磐瀬(いわせ)の仮宮(かりみや)」が置かれたとされた地でもあります。

ここからさらに、筑紫平野の奥の朝倉市の橘の広庭に遷都したのです。

そしてにわかに崩御され、百済救援のおりから「木の丸殿」という簡素な殯(もがり)の建物を建てたのでした。

それについては、このブログでも書きましたので、お読みくださいね。

 

その「木の丸殿」は、それから500年後の『平家物語』でも確認できるのです。

有名な逸話だったのですね。

そして同じく『平家物語』「岩戸」の地名も、那珂川町の「天の岩戸」ゆかりのものとみられます。

これについてもブログで書きましたので、こちらをお読みくださいね。

 

……安徳台を初めて知ってから、歳月が流れました。

ようやく安徳台を訪れて、二重三重にも重なる歴史の奥深さにふれることができたのです。

神功皇后が開いた裂田(さくた)の溝(うなで)

要衝の地には、次々と歴史上の人物が足を運ぶもの、とは歴史の旅を続けてしばしば認識することです。

この安徳台には、神功皇后も足を運んでいたのでした。

神功皇后は神託を受けて、天つ神国つ神をお祭りして、西方を平定されようと、神田(神へのお供えのための田)を定めました。

 

『日本書紀』神功皇后摂政前記では次のような記事があります。

時に儺(な)の河の水を引かせて、神田に潤(つ)けむと欲(おもほ)して、溝(うなで)を掘る。

迹驚(とどろき)の岡に及(いた)るに、大岩ふさがりて、溝を穿(とお)すことを得ず。

(そして那珂川の水を引かせて神田を潤そうと水路を掘りました。
迹驚(とどろき)の岡まで掘り進んできた時、巨岩が立ちふさがり水路を貫くことができなくなってしまいました。)

 

皇后、武内宿祢(たけのうちのすくね)を召して、剣鏡を捧げて、神祇(あまつかみくにつかみ)を祈りまさしめて、溝を通さむことを求む。

(皇后は武内宿祢(たけのうちのすくね)をお呼びになり、剣と鏡を捧げて神々をお祭りして、水路の貫通を祈願されたのです。)

 

すなわち時に、雷電霹靂(かむとき)してその磐(いわ)を踏み裂きて、水を通さしむ。かれ、時人(ときひと)、その溝を名付けて裂田(さくた)の溝(うなで)という

(するとおりしも雷鳴がとどろき、その巨岩を切り裂き、水路を通すことができたのです。そこで、当時の人々はその水路を「裂田(さくた)の溝(うなで)」とよぶようになりました)

 

……どうしておりしも雷が鳴り響き、岩が裂けたのかしら?……など、考えてしまうのですが(笑)、その神功皇后が開いたという水路は、確かに残っていました!安徳台の麓です。

裂田(さくた)の溝(うなで)

今も、那珂川町を象徴する、豊かな水田を潤す清流が流れています。

延長は5キロを越えます。神功皇后をお祭りする作田神社がありました。

そして大きな岩もあります。

こうした堅い岩盤を貫通させるには、大変に難航する工事であったのでしょう。

当時の人々の労苦が偲ばれます。

その裂田(さくた)の溝(うなで)から仰ぐ丘が安徳台、「迹驚(とどろき)の岡」です。

「皇后がお祈りすると、雷鳴がとどろいて、大岩が裂けて水路が通じたそうだ」……など、有難い思いで語り継いだのでしょう。

 

『日本書紀』の記述を現実に目にして、しかもこの地を訪れと、さらなる歴史の奥深さにふれることになるのは、それこそ驚きとどろきなのでした^o^!

 

めったに読むこともない『日本書紀』の記述から、神功皇后の裂田の溝の話を知り、「この水路を神功皇后が作った裂田の溝にしちゃおう」……なんて難しいと思いますよね(笑)

地元の人々が、有難く感謝の気持ちを込めて、語りついだと考えるのが自然です。

往時の奴国から安徳天皇の歴史まで

安徳台は「御所の原」「上の原(はる)」とも呼ばれています。

那珂川の右岸、標高60メートル、広さ10万平方メートルの広大な台地です。

西端を那珂川に包まれ、東に城の山、西に松尾山にはさまれた天然の要害です。

およそ50万年前に、阿蘇山の大爆発による火山灰の堆積でできた台地とされます。

 

大地のそれぞれの端では、玄界灘の海上方面に筑紫の門戸を守る立花山、筑紫山地方面に宝満山から背振山まで、周囲を眺望ことができるようです。

安徳台を中心とする那珂川町の一帯は、本格的な調査は行われていないものの、これまでの発掘から弥生・古墳時代の文化財の宝庫とされています。

那珂川町の歴史資料館で、その一端を見ることができます。

銅矛・鉄剣・鉄戈・ゴ玉類

甕・壺・筒型器台

ゴボウラ貝の貝輪・玉類

奴国時代以後も、新たな統治者が、古墳を築くなど要衝地であったことがわかります。

 

現在の台地上には、畑や森が広がって、その山麓に集落があります。

奴国の往時を偲ぶものは何も見当たらないのですが、ささやかな安徳天皇の祠(ほこら)がありました。

安徳天皇と平家一門が、筑紫の国まで入って、再起を期していたことは、安徳台の由緒から初めて知ったのでした。

 

「おいたわしい」と、わずか8才で祖母の二位の尼に抱かれて、壇ノ浦に入水したという幼い天皇が偲ばれてならなかったです。

もしかしたら、ひそかに生き延びていらっしゃることはなかったのでしょうか(泣)

 

かたわらに秋草の花語るらく 滅びしものは懐かしきかな

若山牧水

 

奴国の都~神功皇后~斉明天皇・天智天皇~安徳天皇~と、重層する歴史に思いを深くする安徳台です。

山麓を潤す作田の溝(うなで)の清流が、さまざまな人々の思いを浄化するように流れています。

 

神功皇后が、安徳台の麓の田を神に捧げるために、那珂川から水路を引いて潤すという、秀逸な発想に感服します。

神々もこの土地の人々もさぞやお喜びであったでしょう。

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