5万戸の投馬国は農業や物づくりに励む人が多かった国

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こんにちは!yurinです。

場所から見て、他国への進出には一歩引いたスタンスで、農業や手工業に励む人々が多かったと考えられる投馬(つま)国。

その投馬国がどんな国だったのか?掘り下げて考えてみます。

静かに落ち着いて物づくりに打ち込む八女の人々

筑後の国のバスツアーに参加した時に、久留米市で染物のお仕事をされている方からのご教示が心に残っています。

「八女地方は静かに落ち着いてものづくりに打ち込める土地なのです」

と。

さらに、

「この大きな甕は染物にも使います。物づくりはつながっています」

なるほど、大きな甕といえば、甕棺しか浮かばなかったのですが(大汗)、発想の転換をいただけました(大拍手)!!

 

八女茶、八女灯籠は全国ブランドになっています。

お米はもちろん、ミカンや桃などの果実、草花などの農園芸、八女伝統館で見られたように和紙・提灯・籃胎(らんたい)漆器……

九州地方では伝統工芸品の集結地として、最大の生産額を誇っているそうです。

投馬国についてのこちらの記事で千葉県と似ていると言いましたが、この伝統工芸品については、全く違います(汗)

やはり国内外の文化の摂取・受容による創意工夫、技術の継承は、筑後の国ならではの秀逸な文化と思いました。

その時にいっそう八女地方の歴史が染み入ってきたのでした。

あらためて地図を見ると、筑後の国の中央を貫流して有明海に注ぐ矢部川の役割に気づかされます。

八女地方を潤す矢部川の歴史

矢部川流域に開けた八女地方の歴史が偲ばれてきました。

『日本書紀』景行天皇18年、天皇は筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに=筑後の国の古称)を巡行します。

八女(やめ)の県(あがた)に到る。

(略) 時に水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)猿大海(さるおおみ)、奏して言(もう)さく、

「女神(ひめかみ)まします。名を八女津媛(やまつひめ)と曰(もう)す。常に山の中に居(ま)します」ともうす。

故(かれ)、八女の国の名は、これによりて起(おこ)れり

(八女の県(あがた=大化の改新以前のヤマト朝廷の直轄地)に到着された。
……そこで水沼の県主(あがたぬし)が申し上げた。「女神さまがいらっしゃいます。
名を八女津媛と申し上げます。いつの山の中にいらっしゃいます」と。
それで八女の国に由緒になっています。)

 

「県」(あがた)は、大化前代の大和朝廷の地方組織として県主(あがたぬし)が統治したとも、国造の下部組織とも、朝廷の直轄地ともされる地です。

後世まで残る鴨県主(かものあがたぬし)や磯城県主(しきのあがたぬし)などから、宗教性を帯びているとされることが多いのです。

水沼(みぬま)氏は、当初に宗像三女神をお祭りしていたともされ、筑後の国に勢力を保持していた氏族とされます。

筑後川の水運を担っていた氏族とみられます。

 

一方で八女津媛は「いつも山の中にいらっしゃいます」とあるように、矢部川上流の山間部で、神事を行っていたようです。

考えてみますと、筑後の国の北方の「邪馬台国」と、筑後の国の南方の「狗奴(くな)国」は、対立関係にあったのですから、「投馬国」はそのはざまにあって筑後の国は微妙なポジションです。

筑後の人々は、なかなか安住できるものではなかったでしょう。

八女津媛イメージ

「壺を捧げる女」川崎日香浬氏

戦乱を避けて投馬(つま)国の歴史を偲ぶ

そうした中で、後の磐井の乱で、筑後川の中心の久留米市の「御井」付近が、大戦場地になったことを考慮すれば、八女津媛が、矢部川の上流にひっそり暮らしていたのも納得できてきます。

矢部川流域は、大軍勢の通り道になることも少なかったでしょう。

可能なかぎり大国の戦争巻き込まれずに、ひっそりしていること、それが最善の策だったようにもみられます。

 

そして人々は、大きな勢力に、労力や物を提供しつつも、積極的に他国に出ていくことはなく、淡々と農業生産やものづくりに打ち込んでいたのではないでしょうか。

 

矢部川の「やべ」は「八女(やめ)」と通じているという説があります。

さらにいえば八女(やめ)は、「つま」からきているようにも思われます。

「妻」は「め(女)」とも言います。

「つま」の国が、庶民の間では「め(妻)」の国となり、それに美称としての「や」がついて「やめ(八女)」になっていたのではないでしょうか。

 

『魏志倭人伝』の「投馬(つま)」国は、思索を深くしてくれる国です。


耳納連山(うきは市)

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