「筑紫の国」を象徴する3つの河川~筑紫邪馬台国入門1~

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こんにちは!yurinです。

日本の古典を素直に読めば、邪馬台国は筑紫にあったと考えられるので、こちらの記事で、

「邪馬台国は筑紫の国」と言いましたが、まず「筑紫(つくし)の国」について話しますね。

 

北部九州には中央部の筑紫山地から流れ出すいくつかの河川があります。

なかでも代表的な河川が、遠賀(おんが)川・筑後(ちくご)川・那珂(なか)川の3つの河川です。

この河川に囲まれた地を中心に、筑紫の国は発展したようにみられます。

那珂川中流の那珂川町

河川を上手に利用した国作り

『先代旧事本紀』「国造本紀」をみると、神武天皇の時代から奈良時代までに130余りの国造が置かれたことが知られます。

特に第21代の雄略天皇の時代までに、約120の国造(くにのみやつこ)が置かれました。

雄略天皇の時代から、奈良時代までは、10ほどの国造が設置されているだけです。

 

中でも私の郷土の千葉県は、現在の都道府県別にみると、最多の9の国造が置かれています。

日本列島の古代の国作りの様相を知るヒントを与えてくれます。

千葉県の国造が置かれた場所は、ゆかりの地名・神社・古墳などからわかります。

それをみると、河川を上手に利用した国作りをしていることがわかります。

大河川の下流域は右岸左岸で国境となり、中上流や支流、あるいは中くらいの河川に国が形成されています。

つまり今の首都圏がある、江戸川や利根川の下流域よりも、千葉県の南部の方から「国」ができています。

 

そして古墳時代の頃の千葉県は、大和朝廷から派遣された氏族によって開拓統治されたようです。

各氏族それぞれに委任統治されていた分国状態で、県内を一つにまとめる強力な勢力があったとは考えられないのです。

 

一方で筑紫の国、すなわち今の福岡県を中心とする地域は、同じ時代にほぼ一か国にまとまっているのです。

『魏志倭人伝』から、150~200年後の時代です。

 

福岡県では、西側の周防灘に注ぐ長狭(ながお)川流域「豊の国」があったとされます。

第12代景行天皇は、山口県の防府市付近から、九州のこの地に入っています。

この地に行宮(かりみや)をおいたことから、みやこ郡の名称となったとされます。

行橋市には、神話に因む豊日別(とよひわけ)宮があります。

 

また『万葉集』では、京都郡に隣接する田川郡の香春(かわら)岳の付近も、「豊国(とよくに)」として歌われています。

古代史学者の安本先生は、卑弥呼の時代の後、台与(とよ)の時代には、北部九州の西側に遷都(つまり豊の国)したのではないか、とおっしゃっています。

 

福岡県は、西部の豊国をのぞくと「筑紫の国」の一か国にまとまっています。

『魏志倭人伝』の連合国よりも強力な政治基盤ができていたように見られます。

一か国にまとまっている筑紫の国=強力な政治基盤ができていた

 

ちなみに国造が多い都道府県は、千葉県のほか、福島県→ 8  岡山県→8  静岡県・茨城県→7です。四国では、愛媛県→5です。

都道府県 国造の数
千葉県 9
福島県 8
岡山県 8
静岡県 7
茨城県 7
愛媛県 5

国造がたくさん置かれている=各氏族それぞれに委任統治されていた「分国状態」

と考えると、邪馬台国=吉備説(岡山)などもありますが、どうも 認識が、違っているのではないでしょうか?(汗)

北部九州を象徴する3つの河川

ギリシャのヘロドトスの「エジプトはナイルの川の賜物」という言葉があります。

ナイル川流域は肥沃な穀倉地帯です。

さらにエジプトと中近東を往来する交易によって、豊かな富を蓄えるための立地条件を兼ね備えていました。

 

一方で日本列島を見てみると、エジプトの国内を貫流するナイル川のように、そのすべての利点を一つの河川が兼ね備えているのではなかったようです。

日本列島の背骨には高い山脈が続き、無数の河川が流れ出しています。

 

日本列島でいち早く弥生の農耕社会が到来した北部九州を象徴する3つの河川があります。

那珂(なか)川、筑後(ちくご)川、遠賀(おんが)川です。

 

那珂川は、背振山系から博多平野を南北に貫流して、玄界灘に注ぎます。

この流域へ住む人々は、博多~壱岐~対馬を経て、大陸へ至近距離のポジションの優位性があります。

 

一方で肥沃な大穀倉地帯となる、筑紫平野を形成するのが「筑後次郎」と呼ばれる、九州第一の大河の筑後川です。

高良大社(久留米市)から筑後川が流れる筑紫平野

筑紫山地から流れ出し、北部九州を東西に貫流し、有明海に注ぎます。

それで、大陸への交易ルートは、那珂川流域よりも、遠くなってしまいます。

そしてその筑後川に続く北部九州第二の河川が、遠賀川です。

水巻町立屋敷の対岸からの遠賀川

筑紫山地から福岡県を南北に縦断して、玄界灘に注ぎます。

遠賀川流域は、なんといっても、本州へ近いので、文化の摂取や人々の往来が容易です。

日本の古典から高まる筑紫の国と遠賀川の重要性

北部九州の古代については、中国文献の『魏志倭人伝』から考えると、遠賀川流域のポジションははっきりと見えてきません。

ところが『古事記』『日本書紀』『風土記』などの日本の古典を読むと、神話・初期天皇時代の逸話・祭祀・地名など「筑紫の国の遠賀川」の重要性が認識されてくるのです。

 

考古学者の森浩一氏は、北部九州を東地域と西地域にわけて、対照的に考えておられます(『列島の地域文化』『記紀の考古学』)。

北部九州東地域は、西部地域に特徴的な大型甕棺(かめかん)や青銅製品の墓への埋納は貧弱であるものの、遠賀川式土器や宗像社の信仰で代表されるような、かたくなに縄文以来の伝統や弥生の前期的状況を継承した地域

ととらえておられます。

北部九州地域 遠賀川式土器、縄文以来の伝統、弥生前期的状況を継承
北部九州西地域 大型甕棺、青銅製品の墓への埋納

 

神話の時代から筑紫の国と本州方面の交流が記されるのは、遠賀川から近い、出雲や瀬戸内海方面です。

「筑紫の国」は、第42代文武天皇の大宝元年6月に、

使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して、大宝令に基づいて政治をおこなうように

とあることから、西海道の中の筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・豊前(ぶぜん)が、筑紫の国から分割されたことが、正式に知れるのです。

ですがその「筑紫の国」が、いつからあって、時代ごとに、どの範囲を指すのかは明確ではありません。

 

古くは『古事記』神話の始まりに、九州島全体を「筑紫の島」といっています。

伊奘諾尊(いざなきのみこと)が、黄泉(よみ)の国から帰還して禊祓(みそぎはら)いをしたのが「筑紫日向(つくしひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)」です。

神武天皇は、南九州を出発して「筑紫の莵狭(うさ、宇佐)にお着きになられた」とありますから、大分県北部も筑紫といわれていたことがわかります。

 

さらに『先代旧事本紀』では「筑紫米多(つくしのめた)の国造」が置かれたことが記されています。

佐賀県三養基郡付近とされています。有名な吉野ヶ里遺跡も近いです。

奈良時代にこの付近は「肥前(ひぜん)」の国ですが、古くは「筑紫」と認識されていた時代もあったようです。

 

国家統一を成し遂げたのは、遠賀川・筑後川・那珂川を中心とする、筑紫の人々の切磋琢磨した総合力だったのではないでしょうか。

日本列島でいちはやく大陸文化を受容して農耕民族としての力を持つとともに、伝統の海洋民族の力を合わせもった人々のパワーが結集された地域のようにみられます。

 

『古事記』『日本書紀』などの古典に記された「筑紫の国」。

『魏志倭人伝』の国名をあわせれば「筑紫邪馬台国」といえるようです。

嘉麻(かま)市を流れる遠賀川

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