高天の原の知恵者思兼命(おもいかねのみこと)が阿智神社に【1】のつづきです。
長野県は古くから「信濃の国」として一つの国になってきましたが、高い山や谷に隔てられています。
日本海へ注ぐ信濃川流域と、太平洋へ注ぐ諏訪湖が水源の天竜川流域では、盆地ごとに独自の文化があるようです。
その信濃の国を一つにまとめてきたのが、諏訪大社への信仰です。
祭神は出雲の大国主命の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)です。
国譲りに敗れたとはいえ、その信仰と勢力は、まだまだ絶大なものがあったのです。
目次
天竜川に添い太平洋側から諏訪へ
その諏訪の勢力を封じるために、高天の原を采配した思兼命という最強の一族に託したのです。
思兼命を祭る神社は、意外なほど見当たらないのですが、そのパワーを古東山道の要衝に結集させたのでした。
奥宮は古東山道の神坂(みさか)峠直下にありました。
神坂峠の山
延喜式内社の阿智神社奥宮の掲示板には、次のようにあります。
昔から村人は「山王(さんのう)さま」と親しみをこねて呼び、小丘を阿智族の祖、天表春命(あめのうわはるのみこと)の墳墓「河合(かわあい)の陵(みささぎ)」名づけて、信仰を集めてきました。
丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座(いわくら)であると云われてきました。
このごろこの巨石を囲む遺構が発見され、いよいよ磐座であることが確かになりました。
磐座とは古代の祭祀場(さいしじょう)において、神霊が降りてきて鎮座したところです。
この地が阿智神社の祭神、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)(天思兼命)・天表春命の鎮座地であるとともに、全国の総本社であることがうかがえます。
この二神は信濃国に天降(あまくだ)って、阿智の祝(はふり)の祖(もとつおや)となったことが、平安時代初期に編された「先代旧事本紀」に記されておりますし、天思兼命は、「古事記」「日本書紀」に高天原随一の知恵の神として登場しています。
平成二年十月 阿智村観光協会
太字、()は古代史日和
神社の掲示板からは、思兼命が降臨したともとれるような書き方です。
果たして思兼命は、高天の原にとどまったのでしょうか、それとも信濃の国に降ったのでしょうか。
その他に有力な思兼命の御陵が見当たらないので、やはりこの地へ降臨したのは、有力ではないでしょうか。
その後東山道は、「木曽路」が開通して、主要道からこの地は取り残されてしまうことになります。
……そのような地だからこそ、いっそう思兼命の降臨伝承が真実のように思われるのです。
さらに阿智神社元宮に磐座(いわくら)があります。
そこの掲示板には、次のように書かれています。
磐座のあるこの小山は昔から河合(かわあい)の陵(みささぎ)と呼ばれる。
磐座の上面は比較的平らな巨石である。
この巨石が社殿の発達する以前、阿智族の守護神であり、祖先神である八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)、その御子(みこ)天表春神(あめのうわはるのかみ)二神の神霊を迎えて、祭が営まれた式内阿智神社の元宮であった。
太字、()は古代史日和
河合(かわあい)の陵は、河川の合流点にある天孫族らしい御陵です。
木立ちの奥からしきに川の流れが聞こえます。
今から思い出すと、飯塚市立岩の磐座(いわくら)に似ていますが、私が飯塚の立岩を見たのは、このあとでした。
それで、市街地の巨大な磐座に度肝をぬかれました(大汗)!
諏訪勢力に対峙して東山道の要衝に鎮まる思兼命
この地への人々の開拓について、『日本書紀』で、第15代応神天皇の時代の「阿智使主(あちのおみ)」の渡来とむすびつける説もあります。
信濃の国造の先祖の建磐龍命(たけいおたつのみこと)の子は、神功皇后の三韓征伐に従軍し、そちらの統治を任され、後に信濃の国に帰国したという伝承があります。
その時に、多くの渡来人を引き連れて来たようで、確かにそのできごとと「阿智使主(あちのおみ)」を重ね合わせることもできそうです。
……ですが神功皇后や応神天皇の時代は、建御名方の時代とは少なくも100~150年以上の開きがあります。
阿智使主(あちのおみ)に先んじて、饒速日尊とともに、北部九州から降臨した人々があっても不思議はないです。
西方からの開拓者の来訪は、一度だけとは限りません。
そちらの方が長野県の銅鐸、諏訪の薙鎌・鉄鐸など矛盾が少なく説明できるようです。
饒速日尊とともに降臨した思兼命(おもいかねのみこと)の御子たち
『先代旧事本紀』巻3の「天神本紀(あまつかみのもとつふみ)」にでは、天の岩戸の後の天照大神と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の命を受けて、饒速日尊(にぎはやひのみこと)と32の神々、物部25部が降臨します。
その32の神々の名称の中に
八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)の子 表春命(うわはるのみこと) 信乃(野)阿智の祝部(はふりべ)たちの先祖
天下春命(あまのしたはるのみこと) 武蔵秩父の国造(くにのみやつこ)たちの先祖
とあります。
八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)の「八意(やごころ)」とは、多くのものごとに通じている思兼命を称えた賛辞としてつけられたものとみられます。
武蔵秩父の国造は、東京都~埼玉県を流れる、荒川上流の秩父盆地を統治した国造(くにのみやつこ)です。
埼玉県秩父市には秩父神社があり、思兼命が祭られています。
そして表春命(うわはるのみこと)降臨してお祭りしたのが、長野県下伊那郡の式内社阿智神社です。
古東山道の要衝地、神坂(みさか)峠の直下にあります。
『古事記』『日本書紀』ともに、後の時代に、この峠を越えた日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを記しています。
もちろん地元の伝承も濃厚です。
本州中央部の要衝地に、高天の原最強の一族を結集
話しは飛びますが、戦国時代に武田信玄は上洛目指し西征を開始します。
三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍に大勝利しますが、病が重くなり兵を返します。
そしてこの阿智村で亡くなります。
密かに信玄の遺骸を火葬したという終焉の寺院があるのです。
一度は主要道から外れてしまった阿智村ですが、1975年、中央自動車道の恵那山トンネルが開通すると、再び活気を取り戻します。
名古屋方面と中部地方を結ぶ要衝地であることを再認識します。
この地がいかに要衝の地であるかは、後世の人々の歴史をたどることで認識できます。
その時に、高天の原最強一族の降臨の重さに、新たな光が投げかけられるのです。