こんにちは!yurinです。
諏訪湖を水源とする天竜川は、上伊那郡から始まりますが、伊那谷とよばれる盆地の南に阿智神社があります。
阿智神社は、『先代旧事本紀』の始まりに記される神社です。
祭神は、高天の原の随一の知恵者、思兼命(
『先代旧事本紀』「天神本紀」で、天表春命(
古東山道の要衝地に、諏訪の神さまをおもんばかり、祭られたものとみられます。
『先代旧事本紀』の筆頭に思兼命の子孫
『先代旧事本紀』は、仏教渡来以前の神道祭祀の面影を残した記述が、『古事記』『日本書紀』と比べて濃厚です。
巻1の「神代系紀(かみよのつぎぶみ)」は、伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)までの、神代の七代に系譜が書かれています。
この部分は『古事記』『日本書紀』の神代七代の系譜の神さまの名称がでてきます。
ところが、そのあとの高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫の系譜は、『古事記』『日本書紀』にない独自の記述です。
高皇産霊尊 その御子の天思兼命(おもいかねのみこと)〔信濃の国に天降りなされた阿智の祝部たちの先祖〕
『古事記』『日本書紀』で、天思兼命(あまのおもいかねのみこと)は、天の岩戸や出雲の国譲りという難局にさいして、采配をふるう高天の原で一番の知恵者です。
その子孫が信濃の阿智の祝部(はふりべ)、すなわち長野県阿智神社の神職の先祖という記述が現れます。
続いて記される、有力氏族の大伴氏、忌部氏、京都の賀茂神社の氏族に先んじて『先代旧事本紀』の筆頭!に記されるのは、実に意外で驚くのですが、そこにこそ真実味を感じます。
長野県南部の要衝地に、建御名方神を奉じる強大な諏訪勢力に対峙して、高天の原の最強の一族を派遣したとみられます。
『先代旧事本紀』が引用されている掲示版
式内社阿智神社の里宮は、昼神(ひるがみ)温泉街の高台にあります。
神社の掲示板には次のようにあります。
当神社は、先代旧事本紀に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、児天八意思兼命、その児天表春命と共に天降りまし、信濃国阿智祝部(あちはふりべ)等の祖(もとつおや)となる、とあり。
太字、()は古代史日和
おおっ!なんと、『先代旧事本紀』が引用されています(大拍手)
うれしくて小踊りしてしまいました\(^0^)/
つづきます。
大古越後より信濃にかけて蟠踞(ばんきょ)する、出雲系諏訪族に対抗する、天孫系氏族の尖兵として信濃の国境を押える、最重要地点御坂(みさか=神坂)東麓、この地に来たり駐留し、その部曲(かきべ)の民を率いて、阿智の地方を中心に伊那西南部の一帯の経営開拓にあたった。
「越後から信濃に蟠踞(ばんきょ)する出雲系諏訪族」とは、一方的な見方のようでもありますが、とにもかくにも、出雲から諏訪へ入ってきた勢力に、相当に恐れをなしていたことはわかります。
「対抗する、天孫系氏族の尖兵として」「最重要拠点の御坂(神坂=みさか)東麓、この地」にやって来て、「部曲(かきべ=豪族が私有する民人)」とともに、開拓にあたった……とは、まさしくそのとおりの状況であったとみられます。
古東山道の要衝地を確固として掌握しようと、高天の原勢力の中でも、とくに信頼できる、思兼命(おもいかねのみこと)の一族に託したものでしょう。
掲示板には、さらに興味深い内容がつづきます。
信濃の国三大古族(安曇族・諏訪族・阿智族)の一つ、阿智族の本拠で、駒場町鎮座安布知(あふち)神社と共に、祖先神であり守護神を祭る神社である。
奥宮は、ここより阿知川に沿って、遡(さかのぼ)ること2kmの地点にあり、一山古墳の如く、境内にある苔生した大石は、古代祭祀跡の磐座(いわくら)である。
と、学者により立證せられ、里人は昔からこの山を川合陵(かわあいのみささぎ)と呼び、永久(とわ)に鎮ります、奥都城処(おくつきどころ)〔墓地〕として崇んでいる。
なるほど、「信濃の三大古族」とはナットクです。
八ヶ岳縄文世界にさかのぼる諏訪大社の信仰で結ばれる勢力、信濃川をはじめ河川や海の水運を得意として安曇野の穂高神社を奉じる勢力、そして南部の天竜川が流れる伊那谷を中心に阿智神社の思兼命(おもいかねのみこと)を奉じる阿智の勢力です。
すなわち後の、諏訪氏・安曇氏・阿智氏(小野氏)です。
中でも阿智氏(小野氏)は、一見地味な氏族ですが、間違いなく信濃の要衝に繁栄しているのでした!
又、社伝によれば、この神は工匠の神として稲籾を十個並べて一寸とし、一寸を十並べて一尺とし、物の長さを計る単位を定め、曲尺(かねじゃく)を、作り曲尺の祖神として、大工・建具職・細工職・等材木を扱う人々に深く信仰せられている。
本県上水内(かみみのち)郡鎮座、戸隠神社中社 天八意思兼命、宝光社 天表春命二神は、村上天皇天暦年間この社より分祀せられたと伝えられている。
太字、句読点、()は古代史日和
そうなんです。
長野県北部、信越国境付近の戸隠神社もまた、古い信仰を伝える山です。
阿智神社よりも、今では戸隠神社の方が、美しい自然とともに観光スポットとして有名です。
もともとはこちらの阿智神社を奉じる方々が、別れて移り、古くからの山岳信仰に合わせてお祭りしたのです。
あの場所に「天の岩戸」の信仰とともに、戸隠山がある歴史のヒントも見えてくるようです。
戸隠山を祭る戸隠神社入り口(長野市)
阿智一族は「建築」の神様としても信仰されています。
引率してきた人々に、そのような高度な建築の技術力を、もった人々もいたとみられるのです。
「飛騨の巧(たくみ)」とも関係しているように思われます。
阿智の人々は、すぐ隣の飛騨の文化とも大きくかかわったのではないでしょうか。
伊那盆地の南から神坂峠、あるいは北部の野麦峠を越えると、木々の文化の深い飛騨地方です。
伊那谷と平行する木曽路もまた木の香り豊かな土地です。
忌部氏は玉作り、織物、木工など、さまざまなもの作りにたけていました。
阿智氏(小野氏)が引率する部曲(かきべ)は、そうしたもの作りにたけていた人々がいたこともわかります。
武力で人心を掌握するのでなく、開拓と殖産興業統治する状況は、なんとも「高天の原随一の知恵の神」とされる思兼命(おもいかねのみこと)の一族らしいですね。
思兼命(おもいかねのみこと)の父が、高皇産霊尊(多賀みむすひのみこと)です。
『古事記』では、別名として「高木の神」とも伝わります。
「高木」は、奥深い山々とゆかりの深い神さまを想起します。
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祭る神社の総本社とされる、福岡県嘉麻市の高木神社のある小野谷も、遠賀川・筑後川源流域で、山々の奥深くにあります。
まさしく、その一族の本領をこの地でも発揮しているようです。
この一族は、山の恵みの資源を利用して、山国の人々を統治することを得意としているのではないでしょうか?
つづく