こんにちは!yurinです。
奈良盆地南東部から東へひと山越えた宇陀市。
宇多川上流の肥えた平野で、のどかな田園風景が広がります。
そこには古代史を深めてくれる史跡・神社があります。
宇陀川に注ぐ芳野(ほうの)川の岸の小高い丘に、八咫烏(やたがらす)神社(宇陀市榛原高塚)もその一つです。
神武天皇の皇軍を、熊野山中を先導した八咫烏(やたがらす)は、熊野灘のある紀州方面の人でなく、大和に住んでいたのでしょうか。
目次
八咫烏(やたがらす)は日本サッカー協会のシンボル
現在、八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークになり、八咫烏(やたがらす)神社の境内には八咫烏の像が奉納されています。
ボールがゴールに導かれるように、願いをこめて八咫烏に託したのでしょう。
八咫烏(やたがらす)は、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に随行して下った32神の一神とされています。(『先代旧事本紀』「天神本紀(あまつかみのもとつふみ)」より)
また八咫烏(やたがらす)は、天神魂命(あまのかむむすひのみこと)とされ、三統彦(みむねひこ)の名称があり、「葛野(かどの)の鴨の県主(あがたぬし)の先祖」されます。
京都市の賀茂別雷(かもわけいかづち、上賀茂)・賀茂御祖(かもみおや、下鴨)神社を祭る、賀茂(鴨)氏の先祖です。
神武天皇の東遷に先んじて、畿内へ入っていたのでした。
神武天皇の軍が熊野山中で迷った時、道案内をした功績によって、葛野(かどの、京都府南部)を賜ったとされます。
同じ頃に編纂された『新撰姓氏録』でも、八咫烏(やたがらす)は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫で、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)であると記します。
「いさましい“つの”のお方」の意味のお名前のようです。
「つの」は山口県下関市角(つの)島、宮崎県児湯郡都農(つの)神社、福岡県田川郡添田町津野……などありますから、もともとの先祖の出身地はそちらと関係があるのかもしれませんね。
八咫烏(やたがらす)のお墓があるのはどこ?
その八咫烏(やたがらす)を祭り、お墓とされる高塚(古墳)があるのが、奈良県宇陀市の八咫烏(やたがらす)神社です。
今の時代でもそうですが、故郷を離れた人々も、死後は出身地のお墓に埋葬されたり、供養されたりする場合が多いものです。
八咫烏は、神武天皇の皇軍を導いて、その功績で京都地方を治め、出身地でも祭られたようにみられます。
背の高く体格が良く、黒い装束を身に着けていたといいますから、忍者を思わせるいで立ちです。
山中を移動するには、獣や害虫を防ぐのに、黒装束がふさわしかったのでしょうか。
宇陀の薬や水銀朱と、海岸部の塩などを交換するために、日常的に大和盆地と熊野の海岸を往復していたかもしれません。
熊野の山道に習熟していたことが、功を奏したとみられます。
※イメージ写真
饒速日尊と下った32神から、次々と神武天皇に味方する勢力
饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、北部九州の筑紫の国から、多くの人々を引き連れて、畿内へ東征しました。
「東遷」といっていいほどの大舞台であったようです。
饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、血筋もよく人望もあったとみられます。
地元の豪族の長髄彦の妹を妻として、順調に事態は進展しました。
そのままいけば、饒速日尊の王朝が続いたのかもしれません。
ところが、なんと!饒速日尊は、幼い宇摩志麻治命(うましまちのみこと)を残して、若くして亡くなってしてしまったのでした(大泣)
後の時代の豊臣秀吉(1537~1598)が、幼い秀頼を遺して亡くなった時のように、饒速日尊とともに下った神々(氏族の先祖)たちは、次々と離反してしまったのでした……
長髄彦に頼る宇摩志麻治命(うましまちのみこと)についていけなくなったのか?
後の物部氏となる勢力の台頭や政権構想に対して氏族の反発があったのか?
母の御炊屋姫(みかしきやひめ)のバックボーンが不満だったのか?
神武天皇の血筋や資質の方が優れてふさわしいと感じたのか……?
『古事記』『日本書紀』では、神武天皇軍の窮地に突然に現れる高倉下(たかくらじ)や八咫烏(やたがらす)が、何者か不明なのですが、『先代旧事本紀』を読むと、その実像が見えてくるのでした。
地元や神社の伝承と符合することも次々にでてきます。
八咫烏は、和歌山県の熊野山中に現れることから、そちらの方面の人物と思いがちですが、むしろ大和方面に居住していたようです。
八咫烏(やたがらす)の2つの説
八咫烏についての考察はさまざまなものが出回っていますが、今回は2つ紹介します。
- 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
- 下照姫(したてるひめ)と天稚彦(あまのわかひこ)の子
1.味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
大国主命と田心姫(たごりひめ)の子の味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)ではないかという説があります。
これは『古事記』で太安万侶が、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を、
賀毛(賀茂、鴨)大御神(かものおおみかみ)
と記しているからです。
『古事記』では、
- 天照大御神
- 賀毛大御神
二神だけ、最高敬語で崇めています。
そして建(武)角身命が賀茂県主(かものあがたぬし)の祖となり、子孫が上賀茂・下鴨神社を奉斎します。
そうしたことから提出された説とみられるのですが、全くの想像ともいえない気がしてきます。
鴨神社の総本社は奈良県御所市の高鴨神社もありますし、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)本人と考えるにはいで立ちからしてムリがありますが、一族ならどうかしら?
神武天皇と背後に物部氏をもつ長髄彦の決戦の時に、氏族は一致団結して行動するのでなく、分裂していた状況も読み取れます。
例えば、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、兄倉下(えくらじ)・弟倉下(おとくらじ)などです。
2.下照姫(したてるひめ)と天稚彦(あまのわかひこ)の子
味鉏高彦根命本人ではなく、妹の下照姫(したてるひめ)が、天稚彦(あまのわかひこ)と結婚して生まれた子ではないかという説もあります。
これは岐阜県の美濃市に大矢田神社があり、その摂社の喪山に天稚彦の墓が伝わり、その一族が住んだ「やた」の地名が、八咫烏の「やた」と共通することからきたものです。
岐阜県の関ヶ原にのぞむ美濃国の一の宮に南宮大社(不破郡垂井町)があります。
そのご祭神の金山彦命(かなやまひこのみこと)は、鉱山や金属の神さまです。
神武天皇の東征のとき、金鵄(きんし)を助けて大いに霊験を現し、祭られるようになったという由緒です。
優秀で光りかがやく八咫烏
金鵄(きんし)は、光りかがやく霊長で、金鵄八咫烏(きんしやたがらす)ともいわれるのです。
神武天皇の東征の後に、功労者を南宮大社の地に派遣して祭ったのか、はたまたこの地から出て、神武天皇の東征を助けた人物が祭られたのか?
神武天皇の東征は、当初考えていた以上の大きな動乱であったように思えるのです。
味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・下照姫(したてるひめ)の父は大国主命、母の田心姫(たごりひめ)は天照大神の娘です。
その一族から八咫烏が出て、千年以上に及んで都があった王城の守護神となったとすれば、大和朝廷が沖ノ島に捧げた8万点の国宝の意味も見えてくるようです。
神武天皇の大和への東征を、大和だけで探究して、あったとかなかったとか、思索を巡らしても、全体像は見えてきません。
一度、大和から離れて広範囲にわたって日本各地を見てから、神武天皇の東征を考えるのは、大切なことと思います。
初めて聞くと、まさか!と思うような奇抜な説や伝承も、まったく根拠ない話しでもないように見えてくることはよくあります。