神武天皇と倭姫命(やまとひめのみこと)に関わる阿紀(あき)神社

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こんにちは!yurinです。

一つの史跡を目指して旅すると、思いがけず周辺には、えっ!?こんなに近くこれもあったの!?と驚くことがしばしばあります。

「拠点集落」は、長く「拠点集落」であったようです。

 

柿本人麻呂が『万葉集』に「ひんがしの野にかぎろいの…」と歌った奈良県宇陀(うだ)市の阿騎(紀)野(あきの)。

その地を訪れると、神武天皇、倭姫命(やまとひめのみこと)、天武・持統天皇まで次々と皇族が訪れた由緒地であったことがわかってきます。

宇陀地方の「水銀朱」や「薬草」を求めて、さらにさかのぼる人々の往来があったかもしれません。

神武天皇の東遷の激戦地のひとつ「宇陀」

九州からの船団を組んで東征してきた磐余彦尊(いわれびこのみこと)、後の神武天皇の皇軍は、安芸(広島)~吉備(岡山)と根拠地を移して、ついに大阪湾に上陸しました!

迎え撃つ長髄彦(ながすねびこ)と背後の物部氏。

神武天皇は敵の猛攻に阻まれ、あえなく退却を余儀なくされます。

 

神武天皇はこの戦法では、

  • 太陽に向かう方角がよくなかったと反省し
  • 太陽の光を背に受けて霊力をいただくように東方から大和の国へ入ろう

と発想を転換するのでした。

 

そして、高倉下(たかくらじ)を通じて、天つ神から「神の剣」を授けられて再起します。

熊野山中で八咫烏(やたがらす)に導かれて、ついに紀ノ川水系の吉野川源流に達したのです。

そこからひと山を越えると、ようやく淀川水系の宇陀川流域に達したのでした(大拍手)。

 

大きな境界の山を越えた地を「穿地(宇賀地、うがち)村」とは、実に適切な表現です。

熊野山中の長い渓谷を抜けると、風景は一転して、たおやかな青山に囲まれて、のびやかな田園風景が広がります。

柿本人麻呂の万葉歌

第41代持統天皇の時代の『万葉集』の代表的歌人、柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)が詠んだ歌が有名です。

東(ひむがし)の野に 炎(かぎろい)の立つ見えて かえり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ

巻1-48

(東方の広々とした野原には、日の出前の光が射して、少しづつ光りの輝きが広がっていく。振り返ってみると、西の方角には月が沈んでいこうとしている)

阿紀野を訪れたのは、あいにく小雨が降ったり上がったりの昼下がりでした。

ですが、実りの秋を迎え、黄金色に色づいた田が一面に広がっていて、なんとも万葉歌ののびやさかさを感じさせる風情でした。

 

人麻呂の時代から150年以上前の推古天皇19年(611)5月5日、『日本書紀』に次のように書かれています。

莵田野(うだの)に薬猟(くすりがり)す。鶏鳴時(あかつき)を取りて、藤原の池の上に集う。会明(あけぼの)をもて乃(すなわ)ち行く

(宇陀野(うだの)で、生薬になる鹿の角や薬草などを採取する催しが行われた。夜明け前に藤原京の池のほとりに集合し、夜明けとともに出立した)

 

是(この)日に、諸臣(もろもろのおみ)の服(きもの)の色、皆、冠の(かんむり)の色に随(したが)う。各(おのおの)髻花(うず)着(さ)せり。

(この日の諸臣の服の色は、みな位を表す冠の色と同じで、それぞれ、飾りを付けていた。)

 

則(すなわ)ち、大徳(だいとく)・小徳(しょうとく)は並びに金(こがね)を用いる。大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)は豹(なかつかみ)の尾を用いる。

大礼(だいらい)より以下(しも)は鳥の尾を用いる

(大徳・小徳は金を用い、大仁・小仁は豹(ひょう)の尾を用い、大礼以下は鳥の尾を用いた)

大徳・小徳……は、603年(推古天皇11年)に聖徳太子が定めた定めた、日本で初めての位階制度です。

儒教の徳目を参考にして、徳・仁・礼・信・義・智の6つを大小に分けて12階としたものです。

これに紫、青、赤、黄、白、黒の色をあてて、さらに濃淡によって大小を区別しました。

 

この後、推古天皇20年5月5日、同22年5月5日にも薬猟(くすりがり)をした記述があります。

旧暦の5月5日には、都から山野に出て、女性は薬草を摘み、男性は薬効の大きい若鹿の角を採取したのでした。

薬猟(くすりがり)の絵画

万葉公園前の掲示板にて

宇陀野は、現在の奈良県宇陀市の大宇陀「迫間(はさま)」や、中庄周辺の「阿騎野(あきの)」を指すと考えられています。

薬猟(くすりがり)壮麗な宮廷行事になっていたようです。

宇陀地方の薬草と水銀朱の霊力

『日本書紀』には、第33代推古天皇・第38代天智天皇の時代(668年)の薬猟(くすりがり)が記されているのみですが、宮廷行事として、毎年行われていたと考えられています。

また宇陀には『万葉集』で歌われた「宇陀の真赤(はにつち)」として水銀朱の産出地としても知られています。

 

朱は土器・衣装・埋葬など祭祀の色として、格別に尊ばれてきました。

こうしたことから「宇陀地方」というのは、特別な聖なる力が宿る地とも考えられたようです。

 

「孔舎衛坂(くさえさか)の戦い」の激戦では敗北した神武天皇でしたが、宇陀地方を征圧し、人心を掌握することで、国家統一まであと一息という地点にのぼりつめたのでした。

 

宇陀地方には由緒ある神社が点在します。

神武天皇に関わる神社もいくつかあります。

その中で、神武天皇と倭姫命(やまとひめのみこと)に関わるのが「阿紀(あき)神社」です。

阿紀神社は、倭姫命(やまとひめのみこと)に関わる神社と思っていたので、神武天皇との重なる由緒は意外でした。

 

社頭の掲示板には次のようにありました。

神武天皇、紀州熊野の難所を越し、大和国宇陀へ出て、当地阿騎野(あきの)において御祖の神を敬(うやまい)祭り、国中へ押出すとき、朝日を後ろに戴(いただい)て、日神の御威勢(ごいせい)をかり、賊軍を討ちはらい、御運を開かせ給う、と当社古文書にあり。

祭神は伊勢神宮と御同体の、天照大神。

社殿は神明造り、南向きと伊勢神宮と全く同じ建て方になっております。

大宇陀観光協会(フリガナは古代史日和)

拠点集落には、次々と有力な皇族が訪れる、とは日本各地の史跡の旅を続けて知るところです。

神武天皇が神々をお祭りした地には、重ねて倭姫命もご巡行されたのでした。

倭姫命(やまとひめのみこと)が三輪山から天照大神を遷した阿紀神社

宇陀地方の中でも「大宇陀」といわれる中心に阿紀神社があります。

宇田川支流の本郷川が、社前を清らかに流れます。

古くは川の対岸の丘の森に高天の原の神々をお祭りしました。

いずれにせよ、この川の流れが神域を象徴していたようです。

神戸(かんべ)川とも呼ばれます。

「斎宮(いわいのみや)を五十鈴(いすず)の川上(かわかみ)の興(た)つ」と『日本書紀』にあるように、天照大神は清らかな「川」を象徴させていただく女神さまです。

 

『日本書紀』で、第10代崇神天皇は、それまで宮中に祭られていた天照大神を、初めて宮中から出して、皇女の豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)にお祭りさせたのです。

 

「倭(やまと=大和)の笠縫邑(かさぬいのむら)」に「磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)」を築いて神域としたとあります。

もともと三輪山は、出雲勢力がお祭りする神域でしたが、いよいよ大和朝廷のご先祖を合わせ祭る神域を、確固として築いたのでした。

 

さらに第11代垂仁天皇は、皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)に、天照大神(あまてらすおおみかみ)を託したのです。

天照大神を豊耜入姫命から離(はな)ちまつりて、倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまう。

ここに倭姫命、大神を鎮(しず)め坐(ま)す処(ところ)を求めて、莵田(うだ)の篠幡(ささはた)に詣(いた)る。

更(さら)に還(かえ)りて近江の国に入りて、東(ひがしのかた)美濃(みの)を廻りて、伊勢の国に到る

(天照大神を豊鉏入姫命から倭姫命に託された。倭姫命は、大神を鎮座申し上げるにふさわしい所を求めて、宇陀(うだ)の篠幡(榛原区篠幡神社)に着かれた。さらに引き返して近江の国に入り、東美濃を巡行して、伊勢国に到着された)

 

天照大神(あまてらすおおかみ)は、祭主(さいしゅ)を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)から、倭姫命(やまとひめのみこと)へと交代して祭られるようになったのです。

 

伊勢国風土記逸文』では、明らかに倭姫命の巡幸を指している記事の中で、

天照大神(あまてらすおおかみ)、美濃(みの)の国より廻(めぐ)りて、安濃(あの)の藤方(ふじかた)の方樋(かたひ)の宮に到りましき

(天照大神は、岐阜県南部から、三重県津市の藤方の「方樋(かたひ)の宮」においでになりました)

とあります。

天照大神をお祭りする祭主は、天照大神がのりうつった神として崇められていたことがわかります。

後の時代に斎宮(いつきのみや)と呼ばれた未婚の皇女です。

倭姫命(やまとひめのみこと)と伊勢神宮の始まり

『日本書紀』では、倭姫命が巡行した地は数か所だけです。

ですが『皇太神宮儀式帳』(804年)『倭姫命世紀』(伝768年、1275~1288年)では、さらに巡行地は多く記されています。

 

『日本書紀』では、宇陀地方北部の篠幡(ささはた)の宮の方が記され、宇陀地方南部の阿紀(あき)の宮は記されないのですが、上の二書のどちらも記載があります。

二書に導かれて、この地を訪れると、いっそうの由緒を感じさせます。

境内は、森閑として清浄な雰囲気が漂っています。

伊賀~近江~美濃~伊勢にはそのように倭姫命に因む神社はいくつもあり、清々しい神域ばかりです。

「元伊勢」と呼ばれ、最近ではパワースポットとして脚光を浴び、参拝する人々も増えているようですね^^

 

古代史学者の田中卓氏先生によれば、

天照大神は宮中を出て、天皇家の神から国家の神に躍進した

倭姫命の巡幸は、有力武将を引率しての皇威の宣布である

ということをおっしゃっています。(『伊勢神宮の創祀と発展』)

倭姫命(やまとひめのみことは、第12代景行天皇の姉(または妹)です。まさしく政治と祭祀をお二人で担い、最強のコンビであったといえるかもしれません。

 

伊勢神宮の成立については、初期天皇の実在を認めない説では、倭姫命も豊耜入姫命の実在も認めないわけで(大汗)、後の時代に第40代天武天皇・第41代持統天皇の時代に、初めて伊勢の地に祭られたようにもいわれます。

果たして、それは真実でしょうか?

私たちは、まずは、伊勢神宮とはどういう神社で、どのようにお祭りされたのか、一般的なことを知りたくなりませんか?

 

古代史日和では、今週の日曜日、えみこ先生による「伊勢神宮」の勉強会があります。

まずは伊勢神宮の見どころとして、せっかく伊勢を訪れるのに知っておいた方がいいことをお伺いしましょう。

お伊勢参りの思い出も、再びの思いも深くなりそうです^^

伊勢神宮に興味のある方はぜひお越しくださいね、お待ちしています。→ご紹介の勉強会は終了しました。

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