神武天皇軍を先導する八咫烏と大伴氏の先祖

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こんにちは!yurinです。

八咫烏(やたがらす)は高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の子孫で、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)であると『新撰姓氏録』は記しています。

そして、神武天皇が熊野方面から大和へ入ろうとして道に迷ったとき、烏(からす)に化身して先導したのが八咫烏ですね。

その功績によって金鵄八咫烏(きんしやたがらす)の称号と、京都の葛野(かどの)の地を賜った賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)。

 

一方でその後も、宇陀の八咫烏神社を、鴨氏の祖先の廟(みたまや)として祭っていた人々があったとみられるのです。

八咫烏とともに神武天皇軍を先導する大伴氏の先祖

八咫烏神社の神域からは、芳野(ほうの)川を隔てて、鳥居の正面に伊那佐山(いなさやま、638m)を臨みます。

あいにく山頂は霞んでいましたが、周囲を眺望するベストスポットとわかります。

 

八咫烏神社は、もとは伊那佐山の遥拝所であったのですが、それは八咫烏神社そのものを、山頂にお祭りしていたからとされます。

現在の都賀那伎(つがなぎ)神社です。

 

伊那佐山(いなさやま)は、神武天皇軍を鼓舞した久米歌にも歌われました。

久米歌は、久米氏が伝承した歌謡で、久米氏は『万葉集』を編纂した大伴家持と同族です。

大伴氏の先祖の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、久米部を引き連れて、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を堂々と先導したとされます。

 

そして神武天皇の熊野行軍を、八咫烏とともに先導したといわれるのが、日臣命(ひのおみのみこと)です。

大伴氏は、当初から天皇家の近衛兵的役割を果たした氏族です。

その功績によって道臣命(みちのおみのみこと=導きの家臣)の名前もいただいたのです。

 

この後、日本武尊の東征においても、大伴武日(おおとものたけひ)がしっかり脇を固めて従軍することになります。

「大伴氏」「物部氏」は、当初の大和朝廷を支える大氏族として有名ですが、その始まりは異なっています。

つまりこうなります。

  • 饒速日尊(にぎはやひのみこと)に供奉し守備 → 物部氏
  • 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に供奉し守備 → 大伴氏

どちらも天孫(天照大神の子孫)をお守りする一族でした。

神武天皇の最終決戦地

奈良盆地の東南部から、桜井市方面に進入する経路は大きく3つ、そこには「墨坂」「男坂(忍坂)」「女坂」と呼ばれて、屈強の兵士たちが守備を固めていたのです。

 

『古事記』『日本書紀』では、その戦況を伊那佐山から見守りつつ、大和盆地へ進む皇軍を鼓舞する歌が歌われました。

楯(たた)並(な)めて 伊那佐(いなさ)の山の 木(こ)の間(ま)ゆも い行き守らい 戦えば 我(われ)はや 飢(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼(うか)いが伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね

(楯を並べて、伊那佐山の木の間から、相手を見張って戦ったので、すっかり飢えてしまった。すぐにも食料を持って援軍にきておくれ)

宇陀地方では、神武天皇に味方する人たちばかりでなく、「宇陀の血原」といわれるほどの戦いもあったとされます。

 

神武天皇の意向を組んで、八咫烏はなるべくなら戦わずして味方を増やそうと、呼びかけたものとみられます。

その伊那佐山を正面に仰ぐのが八咫烏(やたがらす)神社です。

そうした中で、八咫烏(やたがらす)は、しっかりと状況を把握し、適切な情報を神武天皇側にもたらした人物であったように思われます。

フットワークの良さで、大和の諸氏族の間を駆け回り、流血の戦いを避けようと、説得してまわったのではないでしょうか?

まさしく、日本サッカー協会のシンボルにふさわしいです^^

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