東国の守護神 鹿島神宮・香取神宮【2】

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東国の守護神 鹿島神宮・香取神宮【1】のつづきです。

神武天皇が神恩に感謝して、中臣種子を遣わし鹿島の神を祭る

『古事記』『日本書紀』では、その後、武甕槌神がどうなったのか、東国の常陸の国に祭られるようになるいきさつは、記していません。

一方で鹿島神宮の側の伝承によると、神武天皇は、武甕槌神の神恩に謝して、中臣種子を遣わして、武甕槌神をお祭りしたそうです。

それが鹿島神宮の創祀とされています。

鹿島神宮楼門

タケミカヅチを象徴する雷(楼門)

中臣種子は『日本書紀』に登場します。

南九州を出発した磐余彦尊(いわれびこのみこと)は、途中の筑紫の国の宇佐に立ち寄ります。

莵狭(うさ)の国造(くにのみやつこ)の祖(おや)はべり。

号(なづ)けて莵狭津彦(うさつひこ)・莵狭津姫媛(うさつひめ)という。

(略) 勅(みことのり)をもて、宇狭津媛(うさつひめ)をもて、侍臣(まえつきみ)天種子命(あまのたねこのみこと)に妻としてたまう

磐余彦尊は、重要な家臣の天種子命(あまのたねこのみこと)と、莵狭津媛(うさつひめ)の婚姻を結ばせたのです。

この重臣の中臣種子を、はるばる東国へ派遣して、武甕槌神の神恩に感謝して、祭祀を行ったようです。

鹿島には、武甕槌神の神孫とされる子孫がいたようです。

 

やがて第10代崇神天皇の時代に、疫病や天災に苦しむ民衆を憂え、中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)を派遣して、再び鹿島の神をお祭りしました。

神聞勝命はそのまま鹿島にとどまって、武甕槌神の子孫と一致して、鹿島中臣氏として神宮をお祭りしてきたました。

藤原(中臣)鎌足はこの子孫とされます。

『先代旧事本紀』鹿島の神は、石上布都大神(いそのかみふつのおおかみ)

『先代旧事本紀』は、「神道の聖典」ともいわれる日本の神々を語る上で重宝される古典です。

上代古典の最後に編纂された書物です。

先行する『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』の本文をそのまま抜粋している部分が多いのです。

 

……ですが、コピーのない時代に上代の古典の細部に目を通して、書き写すことは大変な労力だったと思われます。

『先代旧事本紀』の編纂者は、先行する古典に目を通して、それで良しとするものは書き写し、「ここは我が家に伝わる伝承とは違う」「不足している」という部分は、新たに加筆訂正しているようです。

 

中でも巻一の「神代の系譜」、巻三の「天神本紀」、巻五の「天孫本紀」、巻十の「国造本紀」には、先行する『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』にはない神々の伝承が含まれます。

 

そしてそれは、このあとに施行される『延喜式』「神名帳」にでてくる神社の記載と一致する部分が多いのです。

地元の神社の伝承とも符合します。

『先代旧事本紀』が、神々の由緒を知る書物とされる由縁です。

 

その中で巻一の「陰陽本紀」鹿島神宮、香取神宮について記されています。

『日本書紀』の経津主命(ふつぬしのみこと)について「下総国の楫取(かとり)に鎮座する」と書かれていますが、鹿島神宮の武甕槌神(たけみかづちのかみ)については、『古事記』『日本書紀』ともに、その後、どうなったかの記載はありません。

 

伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、伊奘冉尊(いざかなみのみこと)とともに、神生み・国生みを成し遂げます。

しかし伊奘冉尊(いざなみのみこと)、最後の御子の火之産霊迦具突智(ほのむすひかぐつち)を生むと、やけどをして亡くなってしまいます。

 

怒った伊奘諾尊(いざなきのみこと)は、カグツチ(迦具突智)を十握剣(とつかのつるぎ)でずたずたに斬ってしまいます。

すると剣についた血が流れて、そこから神々が生まれました。

2代目の「布都の御魂(みたま)」を祭る

『先代旧事本紀』巻一の「陰陽本紀」には、鹿島神宮の祭神についてこう書かれています。

なれる神の名は、天尾羽張(あまのおわばり)の神という。

(略) 児(みこ)建甕槌男(たけみかづちのお)の神。〔またの名は建布都(たけふつ)の神。

またの名は豊布都(とよふつ)の神〕

今、常陸(ひたち)の国の鹿嶋に坐(ま)す大神、すなわち石上布都(いそのかみふつ)の大神これなり

(現れた神のお名前はアマノオワバリの神という。〔またの名をイツノオバシリの神(霊力がいちじるしく、光り輝く剣の神さま)という〕
 
その子がタケミカヅチノオの神。〔またの名はタケフツの神。またの名はトヨフツの神](勇ましい剣の神さま)
 
今、茨城県の鹿嶋に鎮座される大神(タケミカヅチの神)、石上布都(いそのかみふつ)の大神である)

 

さらに、

なれる神の名は磐裂根裂(いわさくねさく)の神という。

児(みこ)磐筒男(いわつつのお)・磐筒女(いわつつのめ)の二(ふた)はしらの神、相生(あいう)める神の児(みこ)、経津主(ふつぬし)の神。

今、下総(しもつふさ)の国、香取(かとり)に坐(ま)す大神これなり

(現れた神の名はイワサクネサクの神(岩を裂いてしまうほどの剣の神)という。
 
その子はイワツツノオ・イワツツノメの二神(裂けた岩石の粒から生まれた男女神)からお生まれになったのが、フツヌシの神。
 
今、千葉県の香取(かとり)に鎮座される大神である(のフツヌシの神)

 

ここで、鹿島神宮の祭神として、武甕槌神(たけみかづちのかみ)が書かれていること、さらにそれが「石上布都大神(いそのかみのふつのおおかみ)」とあることです。

奈良県の石上神宮では、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)として、布都御魂(ふつのみたま)の剣を祭っています。

それと同じ剣を、もともと祭っていたということです。

石上神宮

このようなことを、律令制が定まり、すでに藤原氏の力も安定した時代に、主張して書物に残したのです。

朝廷もそれを受け入れたのは、一つの伝承として、認めたからなのでしょう。

 

初代の「布都の御魂(みたま)」は、神武天皇に授けられて、第10代崇神天皇の時代に奈良県天理市の石上神宮に奉斎されました。

鹿島神宮の宝物館には、2代目の「布都の御魂(みたま)」の神剣が展示されています。

『常陸国風土記』に記された神剣と、考えられています。

慶雲元年(704)、国司采女朝臣(くにつかさうねめのあそん)は卜(うらな)いをして、鍛冶(かぬち)佐備大麻呂(さびのおおまろ)らを率いて、若松浜の鉄を採って、剣を造った

という記録があります。

現在、国宝に指定されている「直刀(じきとう)」の製作年代と一致しているそうです。

古くから「韴霊(ふつのみたま)」とその名を伝えています。

なんと2メートル71センチの長身です!長いです(拍手)

写真撮影禁止なもので、2代目”フツの御魂(みたま)”の剣をご紹介できなくて残念です。

本殿の正面の宝物館でご覧ください。

つづく

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