みちのくヤマトタケルの先達~鹽竈神社の塩土老翁【2】

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みちのくヤマトタケルの先達~鹽竈神社の塩土老翁【1】のつづきです。

租税制度確立のため重ねて皇族を派遣する

『日本書紀』第12代景行天皇の段には次のようにあります。

熊襲反(そむ)きて朝貢(みつぎたてまつ)らず

 「脱税ですな!」と河村先生はおっしゃっています!

まさしくその通りと考えます。

熊襲(くまそ)とか蝦夷(えみし)とか言われる人々も、特別な民族でなく、大和政権の租税制度に馴染まなかった人々、くらいに考えた方が適当ではないでしょうか。

 

古代史学者の安本先生は「国家とは何か?」という問いの一つの答えとして、「租税制度」をあげています。

『魏志倭人伝』では倭国について

租賦(そふ=租税)を収む

とあります。

つまり租税制度が確立していたのです。

毎年、定期的に税を納める、という考え方を、馴染ませるのは一朝一夕にはならなかったでしょう。

 

一度の遠征に成功したからといって、そのまま租税制度を維持するのは困難であったでしょう。

大和政権は何度か将軍の遠征を重ねて、統治機構に組み入れたと考えます。

強大な権力がその場を去れば、「再び税金を納める必要はない」ということになります。

都から離れた遠隔地で租税制度を維持するのは、それなりの人数も必要です。

 

大和朝廷のはじめの頃の時代に、現地に残されて統治にあたった人々の苦労がしのばれます。

そこで当初の大和政権は、皇子という皇族を四方に派遣して、そのまま統治にあたらせたほどでした。

ヤマトタケルを導いた先達たち

『古事記』では武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が、東方に派遣されて、福島県の会津地方に達しています。

『日本書紀』の四道将軍の一人です。

『常陸国風土記』では、神八井耳命の子孫の建借馬命(たけかしまのみこと)の名称がみられます。

さらに『先代旧事本紀』「国造本紀」では、その記事を支持するように、これらの人々の一族は、東国の国造に委任されているのです。

 

『日本書紀』では、第10代崇神天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を、東(あづまのくに)を治めさせた、とあります。

一方、実際に東国各地の神社の伝承をみますと、ヤマトタケルの以前には、四道将軍の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、 

そして武甕槌命(たけみかづちのみこと)、あるいはタケミカヅチを奉じる神八井耳命(かむやいみみのみこと)の一族の足跡があります。

筑波山神社(茨城県)の日本武尊(倭建命)像

筑波山神社(茨城県)の豊城入彦(豊木入日子)命像

ヤマトタケルはその先人たちの足跡をたどって、東征を進めているのです。

さらにヤマトタケル以後も、今度はヤマトタケルの足跡をたどって坂上田村麻呂や源義家は進軍します。

 

ヤマトタケルは1人でこれほどの遠征を成し遂げられるはずはない、とか、ヤマトタケルは開拓統治に励んだ何人もの人物を一人にまとめたもの、という見解が第二次大戦後に横行しています。

確かに、その足跡の細部を見ると「ヤマトタケル軍」の業績ということもあったようにはみられます。

しかしだからといって、ヤマトタケルが何人もいた、ということではありません。

 

何人もいた説は、日本のどの古典にも全く記されていないことで、各地の神社や古墳の伝承にもありません。

日本の古典も神社伝承もヤマトタケルは「ヤマトタケル個人」として語られているのです。

何よりも「先達がいたこと」、それが日本武尊の輝かしい業績を可能にした、と考えます。

陸奥(みちのく)の拠点集落の国府多賀城付近

全国を巡ってみると、古代の拠点集落は、それほどたくさんはなかったのではないでしょうか。

古代においてはしらみつぶしに領地を掌握しなくても、拠点を掌握するだけで十分であったとみられます。

福岡県を流れる遠賀川下流の水巻市立屋敷は、本州と九州を結ぶ幹線の拠点集落で、遠賀川の渡河点です。

JR鹿児島本線・国道3号線の遠賀川橋(左)と山麓の立屋敷を対岸から臨む

付近には、弥生式土器の発祥地、神武天皇、日本武尊、神功皇后……ゆかりの地が集中しています。

 

そうした拠点集落をまず掌握することで、全国統治は進んだのでしょう。

その東国の拠点集落が鹿島と香取付近です。

みちのくの拠点集落は、塩釜港のある宮城県塩竈市の付近だったとみられます。

隣接して多賀城が築かれて国府が置かれました。

多賀城跡

そのはじまりの精神的支柱として、鹽竈神社があったのではないでしょうか。

 

多賀城は奈良時代に宮城県多賀城市市川に築かれました。

東北地方経営の拠点として国府、鎮守府が置かれて、城柵を築いたのです。

仙台市と塩竈市の間に位置します。

神亀1年(724)、大野東人(おおのあづまひと)が、鎮守府として多賀城を築き、延暦21(802)、坂上田村麻呂が胆沢城に鎮守府を移しました。

 

しかしその後も陸奥国国府として東北地方の政治の中心でした。日本三大古碑で国の重要文化財の『多賀城碑』があります。

前九年後三年の役に源頼義・義家が拠点としました。建武新政の際に、護良親王・北畠顕家の政庁にもなっています。

政庁を中心に方1キロメートル余りの土塁が残っています。城跡は国の特別史跡になっています。

つづき

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