みちのくヤマトタケルの先達~鹽竈神社の塩土老翁【3】

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みちのくヤマトタケルの先達~鹽竈神社の塩土老翁【2】のつづきです。

塩土老翁(しおつちのおじ)は縄文時代から海の道を掌る神か

塩竈神社は宮城県塩竈市にあります。

祭神は塩土老翁・武甕槌神・経津主神。

向かって右に志波彦神社も並んで鎮座します。

陸奥国一宮で、安産の神、漁業の守護神です。

 

「~チ」というのは、日本神話の始まりの方にでてくる自然神で、縄文時代のアニミズム信仰にさかのぼる古い神々とみられます。

シオツチ → 潮流を掌る神

ククノチ → 木の精霊

ノヅチ → 野原の精霊(茅葺きの屋根を作る、山菜を採る、狩をするための山野の神)

カグツチ → 人間生活になくてはならない火の神 

ホノイカヅチ → 恐ろしい天災となる落雷の神

中でも潮流を知るのは熟練が必要であることから「老翁(おきな)」とされたと考えられます。

『日本書紀』に塩土老翁(しおつちのおじ)と現れますが、『古事記』では「塩稚(しおつち)」と書かれます。

彦火火出見尊を海神(わたつみ)の宮に案内する塩土老翁

塩土老翁(しおつちのおきな)は、神武天皇の祖父の彦火火出尊(ひこほほでみのみこと)を海神(わたつみ)の宮に導きます。

山幸彦は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)で、海幸彦は火蘭降命(ほのすせりのみこと)です。

スセリは勢いの盛んな様子です。

 

兄と弟は、山幸と海幸の漁を交換することにして、弓矢と釣針を渡し合います。

どちらも上手くいきませんでした。

さらに山幸彦は大切な兄の釣針を失くしてしまいます。

 

たくさんの代わりの釣針を返そうとするのですが、兄はもとの釣針を返せ、と受け入れません。

途方にくれて海岸をさまよっているところに現れたのが、塩土老翁(しおつちのおきな)でした。

かれ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、憂(うれ)へ苦(くるし)びますこと甚深(ふか)し。行(ゆ)きつつ海畔(うみへた)に吟(さまよ)いたまう。時に塩土老翁(しおつちのおじ)に会う

シオツチノオキナは、ヒコホホデミノミコトから事情をきくと、あなたのお力になりましょう、と言ってくれたのです。

 

「無目籠(まなしかたま)を作りて、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を籠(かたま)の中に内(い)れて、海に沈む。すなわち自然(おのづから)に美(うま)し小浜あり。

ここに籠を捨てて遊行(い)でます。たちまちに海神(わたつみ)の宮にいたりたまう

(目が堅くつまった竹かごの小舟を作り、ヒコホホデミノミコトを中に入れて、海に沈みました。
 
するとひとりでに美しい小浜に着いたのです。籠を置いて出て行きました。
あっという間に海神(わたつみ)の宮に着きました。)

こうして彦火火出見尊は海神の宮で3年過ごし、豊玉姫を妻にします。

海神(わたつみ)から潮涸瓊(しおひのたま)と潮満瓊(しおみつたま)を授かり、その霊力によって兄に打ち勝つのでした。

 

ここで、この神話の舞台は九州方面であることは確かですが、その地の潮流を掌握する塩土老翁が、本州の東国を越えて、はるばる東北地方まで案内するのに、疑問に思われる方もいらっしゃるのでしょうか。

ですが、海の道を道案内する海人(あま)族の活動範囲は広域に及んでいたとみられます。

越の国から九州、あるいは反対に青森県までヒスイを運んでいます。

神武天皇を道案内した椎根津彦(しいねつひこ)は、九州から瀬戸内海を通り大和まで先導します。

 

『古語拾遺』の神武天皇の段では、忌部氏の先祖の天富命(あまのとみのみこと)が、麻の栽培に適した土地を求めて、讃岐の国(香川県)へ派遣されます。

さらにそこから総(ふさ)の国(千葉県)に派遣されたとあります。

千葉県の旧安房郡の館山市には、天富命の上陸地があり、お祭りする神社もあります。

天富命の上陸地の目良﨑神社

天富命の御神輿

安房は鹿島郡と並んで、平安時代から安房神社の神郡となっています。

安房神社は忌部氏の先祖の天太玉命をはじめ、一族をお祭りします。

 

安房神社の境内には海食洞窟(波の浸食によって切り立った崖にできた自然の洞窟)があり、忌部氏が祖神を埋葬したとされる人骨が発見されています。

忌部氏もまた海人(あま)族と、近かったようです。

 

塩土老翁は猿田彦神と同一とする人もあります。

いずれにしても日本の海上をダイナミックに活動する海人たちの姿を読み取るべきでしょう。

御釜神社と藻塩焼神事

塩土老翁は、武甕槌神と経津主命を案内した後も、この地にとどまって製塩の方法を授けたとされます。

地元の人々によほど有難いできごとだったのでしょう。

塩土老翁(しおつちのおじ)は、一般的な塩土(しおつち)という神の中でも、「おじ」をつけて、この地の人に特別に個人として記憶された人物のように思われます。

 

塩竈神社の末社として、塩竈市の中心街にあるに御釜(おかま)神社「藻塩焼神事」があります。

藻塩焼神事の竃(かまど)

塩土老翁をご祭神として、4個の塩釜をご神体としています。

 

この塩釜は鉄製で、直径130センチ、深さは16センチほどで、大きさは少しずつ違っています。

神事は7月4日から3日間行われます。

 

七ヶ浜の鼻節神社の沖へ小舟を漕ぎだして、海底から海藻のホンダワラの刈り取り、櫃(ひつ)に納めてもち帰り社殿に供えます。

 

神社の御釜の水を小舟で持ち出し、塩釜湾の釜ヶ淵の塩水と交換します。

境内に設けられた竈(かまど)で藻塩焼が行われ、塩を精製します。

御釜を奉納した神倉

神話のはじまりの二神の国生みに古代の製塩の神事

考古学者の森浩一先生が『日本神話の考古学』の中で、この神事のことを書かれています。

鉄釜の下に火打ち石で火をつけたのが午後1時半、最初は表面に浮くアブクをとるのに忙しいが、約1時間たつと急に釜底に塩の塊が姿をあらわしだし、『記・紀』のオノゴロ島づくりの描写を思い浮かべた。

(太字:古代史日和)

とあります。

 

日本神話の始まりに、イザナキ・イザナミの二神が、天つ神から「この漂っている国を作り固めなさい」と、天の沼矛(ぬぼこ)を賜ります。

 

かれ、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛(ぬぼこ)を指し降ろして、攪(か)きたまえば、塩コオロコオロに攪(か)きなして、引き上げたまう時、その矛の末より滴(したた)り落つる塩、重なり積もりて島となりき。これ「おのごろ島」なり

 

この描写について「奈良盆地の人では持ち合わせない製塩の情景についての知識が、“コオロコオロ”と塩の結晶を道具でかき混ぜる音まで入れて、取り入れられている」と言っています。

「この製塩は縄文時代晩期以降の土器製塩でなく鉄釜を用いる製塩の状況に近いと思われる」

としています。

土器製塩では、かきまぜることはしないようです。

この鹽竈神社の神事を一見して、イザナキ・イザナミの二神が製塩技術に長けているか、あるいはその作業を見慣れている海人(あま)の面影を彷彿とさせるものである、ということを指摘されています。

 

塩竈地方の人々に、新たな製塩方法を伝授した塩土老翁(しおつちのおきな)でした。

その後も新たな製塩技術が入るたびに、当初の塩土老翁に感謝したものとみられます。

 

日本の神社では、そうしたできごとを大切に神事として残しておく伝統があるようです。

この神社は、みちのくの歴史の扉を開いて、深くしてくれる神社と思います。

そして山陰の天の橋立の籠神社といい、松島湾に臨む鹽竈神社といい、日本の由緒ある神社は、景勝地に臨んで神々をお祭りしていることに思いをいたします。

鹽竈神社境内から松島湾を臨む

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