こんにちは!yurinです。
新潟県の糸魚川から新幹線に乗って、さらに西へ向かいました。
継体天皇を輩出した「越(こし)の底力」に近づきたいとの思いからです。
継体天皇のバックボーンを考えるに、北陸道の将軍の大彦命のことは欠かせないと考えます。
旅の続きはひとまずおいて、四道将軍の大彦命についてふれておきます。
四道将軍とは?
日本列島の要衝地に派遣された、大和朝廷の基盤を築いた4人の皇族将軍のこと。
四道将軍について詳しくはこちらもご覧ください。
時代の転換期に戦場となる地にある「川中島将軍塚」
新潟県の上越市から南へ60キロ余り、戦国時代の合戦場で名高い川中島があります。
現在は長野市・千曲市の一部となり、善光寺平とも呼ばれます。
北アルプスの水を集める犀(さい)川と、八ヶ岳・秩父山塊から流れる千曲川の合流点の三角洲です。
千曲川は、新潟県の方々から「信濃川」と呼ばれてきたようです。
日本一の大河です。
川中島は、上杉謙信と武田信玄の時代だけでなく、時代の転換期には、必ず戦場になっています。
それは東国方面から、先進地域の日本海へ、あるいはその逆にも、必ず通らなくてはならない要衝地だからです。
中世のはじまりには、源(木曽)義仲は、東国の源氏の勢力を結集して、川中島で、平家方の軍勢を撃破した勢いで、北陸道から上洛を果たしています。
「夢をもう一度」と、甲斐源氏の武田信玄が、執拗に川中島に固執するのも、先祖の栄光があったからこそでしょう。
幾度となく戦場になってきたので、信玄の弟の武田信繁をはじめ、この地で戦死した人々のお墓があります。
その歴史的総称の川中島の一画に、四道将軍の大彦命の墓とされる「川柳(せんりゅう)将軍塚古墳」(長野市篠ノ井石川)があります。
「川中島将軍塚」と、呼ばれることもあったようです。
中央自動車道の姨捨(おばすて)サービスエリアからは、長野盆地を貫流する信濃川と川中島が一望できます。
その両サイドの支脈の先端部分に、100メートルに及ぶ前方後円墳が築かれました。
向かって左側に川柳将軍塚古墳、右側に森将軍塚古墳、東国屈指の前期古墳です。
川柳将軍塚古墳
拡大します
飯綱山(左)と千曲川(右)
森将軍塚古墳
信濃の国「さらしなの里」、大彦命一族ゆかりの古社
川柳将軍塚古墳の「川柳」は、古墳のまたがる石川・二柳(ふたつやなぎ)の地区名からとったもの。
この地は、平安時代の菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘による「さらしな日記」、江戸時代の松尾芭蕉の「さらしな紀行」の「さらしな」の地名を伝える地でもあります。
夫の故郷はこの旧さらしなの里である、千曲市稲荷山にあります。
「稲荷山は、“稲荷山鉄剣”と共通ですね」
と、古代史学者の安本先生のお言葉に、あっ、と気づかされたこともありました。
この地方から、見渡せる北信五岳の一つ、飯綱(いいづな)山を「飯縄稲荷明神」として信仰してきたことに因む名称です。
結婚してから、「子供の頃に将軍塚へ遠足に行った」とか、「将軍塚古墳がある」と、「将軍塚」いう言葉を、しばしば夫や義父から耳にしました。
最初のうちは、「こんな地方に将軍なんているかしら?地方の豪族を、将軍とかいって奉(たてまつ)っちゃうのが田舎の人なのね(苦笑)」と、笑っていたのですが………(大汗)
ある時、谷川健一編『日本の神々 信濃』を読んでいたら、この古墳のすぐそばにある式内社の「布制神社」がでていました。
布制神社は、布施氏が祖先の大彦命を祭った神社です。
日本根子彦国牽尊(やまとねこひこくにくるのみこと=第8代孝元天皇)・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を合わせてお祭りしています。
目立たない人物ですが、『古事記』『日本書紀』にしっかりと書かれている、大彦命の父と弟です。
彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)は、古代史の陰の立役者で、武内宿禰の父とも祖父とされる皇子です。
その系譜から古代の大豪族の葛城氏・蘇我氏などが輩出します。
ですが、彦太忍信命(ひこふつおしのまことにみこと)を祭るのも、このような親子兄弟の組み合わせの祭神の神社もとても珍しいです。
そこに何かしら真実味を感じました。
つづく