川柳将軍塚古墳は四道将軍大彦命の墓【2】のつづきです。
特殊な出土品の琴柱型(ことじがた)石製品
古代史学者の安本先生に、「大彦命の古墳がありました!」と申し上げると、「えっ!?どこ?」と、驚かれていました。
先生のご両親の郷里は岡山県です。
それで同じ四道将軍の吉備津彦命の古墳の伝承墓をはじめ、全国の古墳を見渡して、四道将軍の古墳には特に注目されていたのです。
四道将軍とは?
日本列島の要衝地に派遣された、大和朝廷の基盤を築いた4人の皇族将軍のこと。
大彦命の陵墓参考地の、三重県伊賀市の「御墓山古墳」は年代が合わないし、奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」は、他の四道将軍の古墳が、それぞれ畿内から遠く離れた地方にある、ということが欠点でした。
川柳将軍塚古墳は、主体に竪穴式石室をもち、前期古墳特有の内行花文鏡をはじめとする多数の鏡、ヒスイの勾玉を含む玉類、円筒埴輪などが出土しています。
(長野市立博物館 許可を得て掲載)
(こちらは掲示板より)
さらに異形といわれる特殊な琴柱型石製品(ことじがたせきせいひん)は、特筆すべき出土品です。
琴柱型石製品(ことじがたせきせいひん)とは、琴の弦(げん)を支える、V字型の琴柱(ことじ)に似ている石製品。
(同博物館にて)
碧玉製品が多く、主に畿内の古墳から出土する希少品です。
紐を通して玉杖頭(ぎょくじょうがしら=杖の頭の部分)にしたとも、お守りとして首から下げたともいわれています。
この玉杖や玉杖の頭については、日本画家の日香浬先生の絵画で拝見して驚いたことがありました!
まさしく玉杖をもっている奴奈川姫の肖像です!この絵画については、郷土史家の土田先生も大変に驚かれたと伺っています!
さらに日本武尊が宮簀媛に「草薙の剣」を授ける名場面を描いた「伊吹山へ」でも、琴柱型石製品を首飾りにしている日本武尊を描いてくださっています。
川崎日香浬氏「伊吹山へ」
玉杖頭を「首から下げる」というのは、新しい解釈として、ここ数年知ったことでした。
博物館の展示物を観察し、それを古典の物語の中に誠実に再現されている、その洞察力にひたすら感服しました。
博物館の遺物は『魏志倭人伝』で解釈されることが横行している中で、展示品と日本の古典に真摯に向き合う日香浬先生の姿勢に敬服します(拝)
長野市立博物館に展示された川柳将軍塚古墳の遺品は、持ち主の美意識と気品を感じさせる品々です。
古墳の出土品は、川中島にある長野市立博物館に展示されていますので、ご興味のある方は足を運んでみてくださいね。
北陸から北関東までも支配した王墓
長野県の考古学協会の会長をされた藤森栄一氏(1911~1973)は、次のようにのべています。
石川将軍塚の王のもっていた二十七面以上の鏡というものは、東国に例なく、畿内の大王なみであることはすでに述べた通りである。
これは千曲川流域を中心に栄えていた箱清水式文化圏の延長として、両毛・北陸までも支配していた王墓と考えてしかるべきだといえるだろう
(『藤森栄一全集2「将軍塚と信濃の国造」』)
石川将軍塚とは、旧石川村(長野市)の川柳将軍塚古墳のことで、江戸時代の古文書では42面の鏡の出土を伝えます!
川柳将軍塚古墳は、千曲川をはさんで支脈の先端に築かれています。
また箱清水文化圏の土器は、弥生式の赤色土器を特徴とします。
(同博物館にて)
四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前進基地となっていたことは事実である
(同著)
まさしく四道将軍の大彦命と神八井耳命の子孫たちは、北陸道からこの地に入り、東国への前進基地を建設し、関東方面へさらに進出したようにみられます。
かの稲荷山鉄剣のさきたま古墳群への道筋を開拓統治したのでしょう。
三重県の御墓山古墳から知る子孫の追慕
長野県の考古学者の方々の考察では、川柳将軍塚古墳出土の琴柱石製品(こじがたせきせいひん)と、桜井茶臼山古墳出土の玉杖(ぎょくじょう)から、二つの古墳の関連性が指摘されていました。
桜井茶臼山古墳は、大彦命の娘で、第10代崇神天皇の皇后になった御間城姫命(みまきひめのみこと)の墓とした方がふさわしく、山の辺の道の崇神天皇陵とのセットで考えて納得できるものです。
崇神天皇陵
また伊賀市の古墳は、大彦命の子孫が追葬したものと考えています。
日本武尊の御陵もいくつか知られていますが、どちらがホンモノかと、二者択一で考えられるものではないと考えます。
遠征した皇族たちは、それぞれの地に妻子を残しています。
それぞれの身内が、父や先祖を偲んで、遺品や遺髪を埋めて、お祭りして供養したのだと考えるからです。
時代が下っても、格別な思いや事情があって、追葬や改葬することが、あったと思います。
そうした考察の中で、安本先生が「大彦命の本来のお墓として、長野市の川柳将軍塚古墳は大彦命の墓でいいと思う」とおっしゃってくださり、『季刊邪馬台国』45号に「大彦の墓」の一文を掲載してくださったのは、本当にうれしかったです(拍手)
つづく