日本武尊(やまとたける)を亡くした景行天皇と稲美姫

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こんにちは!yurinです。

日本武尊の母、稲美姫が亡くなったのは、日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの世を去った、10年後でした。

双子の兄の大碓命と小碓命(日本武尊)は、稲美姫よりも早く亡くなったものとみられます(大泣)

 

最愛のわが子を失った稲美姫の心中は、察してあまりあるものがあります。

伝承では大碓命(おおうすのみこと)は、日本武尊の死後に亡くなっています。

日岡山の稲美姫(いなびひめ)の御陵

稲美姫は、大和から加古川へ戻り、崩じたとされます。

古代において、遠国へ嫁いだ場合、出身地に戻ったり、出身地に葬られることがしばしば見受けられます。

古代は妻問い婚なので、稲美姫は、ずっとこちらに住んで御子たちを育てたのでは?という説もあります。

 

『播磨国風土記』は、日岡山の「比礼(ひれ)墓」=「褶(ひれ)墓」の由来を記します。

年ありて、別嬢(わきいらつめ)、この宮(印南地方の宮)に薨(かく)りまししかば、やがて墓を日岡に作りて葬りまつりき。

(やがて年月を経て、稲美姫はこちらの宮で薨じた。墓を日岡に作り、ここに葬ろうとして、その遺骸を奉持して印南川を渡ろうとした。)

日岡陵

その屍(かばね)を挙げ(あ)げて、印南(いなみ)川を渡る時、大きつむじ、川下より来て、その屍を川中に纒(ま)き入れき。求むれども得ず。

(おりしもその時に、大きなつむじ風が川下から吹いてきて、その遺骸を川のなかに巻き込んでしまった。)

 

ただ、櫛笥(くしげ)と褶(ひれ)とを得つ。すなわちこの二つの物を以(も)ちてその墓に葬りき。かれ褶墓(ひれはか)と号(なづ)く。

(捜し求めても、見つけることができないまま、わずかに櫛を入れる化粧箱と首元にかける褶(ひれ)が見つかった。そこで、この二つのものをその墓に葬った。それで褶墓と呼んでいる。)

 

ここに、天皇(すめらみこと)、恋い悲しみて、誓(うけ)いたまいしく、「この川の物を食わじ」とのりたまいき。これによりて、その川の年魚(あゆ)は、御贄(みにえ)に進(たてまつ)らず。後、御病(おんやまい)を得て、勅(の)りたまいしく、「薬はや」とのりたまいき。

(天皇はイナビヒメを偲んで悲しみ、神に誓った。「この川のものは、決して食べない」と。こういうわけで、その川の年魚(あゆ)は天皇に献上しない。)

 

やがて宮を賀古(かこ)の松原に造りて遷(うつ)りましき。ある人は、ここに清水を掘り出しき。故(かれ)、松原の御井(みい)という

(その後病気になられて、『薬がほしい』と仰せられた。そうして宮を賀古の松原につくってお遷りになられた。ある人がここの冷たい清水を掘って出した。だから松原の御井という)

 

一筋の光明は、稲美姫の御子の神櫛王(かみくしのみこ)は長生きして、讃岐の国造としての任務を果たしたようです。

幸運に恵まれ、大碓命・日本武尊ともに子孫を残しています。

大碓命・日本武尊の血筋は、継体天皇の先祖に入っているともいわれます。

稲美姫は、多くの孫たちの将来に希望を見出して、生涯をとじたのでしょうか(微笑)

稲美姫の死から10年後

『日本書紀』では、稲美姫の死からさらに10年後に、景行天皇が崩じたことを記します。

景行天皇は、纒向日代宮から志賀高穴穂の宮に移っています。

 

さらに晩年に、琵琶湖から賀古の松原に移り住んだのでしょうか?

息長命(おきながのみこと)の一族が、す~~と舟に乗せて、淀川を下り、お連れしたかもしれませんね^^

それともこの地の人々が、仲睦まじかった景行天皇と稲美姫のありし日を偲んで、天皇の魂を呼び寄せたように思い、語り伝えたのでしょうか(涙)

 

加古川流域には古くから鮎が豊漁な景勝地があったようです。

大和生まれの景行天皇は、加古川の美味な鮎をたくさん召しあがったのでしょう。

それもやめたのでした!

 

たくさんの皇子皇女の恵まれた景行天皇。

それだからこそ、いっそう、若く胸をはずませて妻問いに訪れた頃の、たった一度の青春を懐かしく思われたのかもしませんね。

そして日本武尊ほど優秀な御子もなかった、と誇らしさと相反する後悔の思いを深めたのかもしれません(涙)

 

失われ初めて知る大切な人、大切な時代を、どんな権力者といえど取り戻すことはできなかったのです。

子どもはかすがい、といいます。

不運にも子どもに先立だれた夫婦が、それっきり縁が切れてしまう話しさえ耳にします。

 

……ですが、景行天皇と稲美姫は、愛しいわが子を亡くすという悲劇と心の痛みを、共有していたわり合って共に乗り越えて歩んできたのではないでしょうか(涙)

日本武尊の死を悼む心によって、父母や周囲の人々の絆は深まったと思います。

つづく

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