こんにちは!yurinです。
継体天皇の輩出には、雪国の越(こし)の底力があります。
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そして、継体天皇の母方の系譜に垂仁天皇の皇子が見られます。
これは継体天皇の即位に大いに関係がありそうです。
目次
母方三尾氏(みおし)の先祖の垂仁天皇
継体天皇のルーツを探ると、母方の先祖として「三尾氏(みおし)」にたどりつきます。
『日本書紀』は記します。
天皇(すめらみこと)の父(かぞのきみ)(略)
近江国(おうみのくに)の高島郡の三尾(みお)の別業(なりどころ)より、使(つかい)を遣(つかわ)して、三国の坂中井(さかない)に迎えて、納(めしい)れて妃(ひ)としたまう。
ついに天皇を産(う)む
(継体天皇の父上は……滋賀県高島市安曇川町三尾の別邸から、使者を派遣して福井県坂井市三国町に迎えて、召し入れて妃とされた。そして継体天皇がお生まれになりました)
この”妃”は継体天皇の母振媛のことで、第11代垂仁天皇の7世の子孫です。
『日本書紀』第11代垂仁天皇の段には次のようにあります。
この国に佳人(かおよきおみな)はべり。綺戸辺(かにはたとべ)と曰(もう)す。姿形美麗(かおかたちよ)し。
山代大国(やましろおおくに)の不遅(ふち)が女(むすめ)(略)喚(め)して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。
磐衝別命(いわつくわけのみこと)を生む。これ三尾君(みおのきみ)の始祖(はじめのおや)なり
また『古事記』に、
山代の大国の淵(ふち)の女(むすめ)
(略)弟苅羽田刀弁(おとかりばたとべ)を娶(めと)して、生みませる御子、石衝別王(いわつくわけのみこ)。
(略)羽咋(はくい)の君、三尾(みお)の君の祖
と、あります。
さらに継体天皇の出自が議論される時に、必ず引用される『上宮記』(本文消失して、抜粋のみ。7世紀頃の歴史書)という書物があります。
『釈日本紀』(鎌倉時代末期に成立した『日本書紀』の注釈書)に引用されています。
その『上宮記』によると、「垂仁天皇の皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)磐衝撃別)の子孫が、継体天皇の母の振姫」との系図が記されます。
『日本書紀』で、継体天皇のお妃の出身氏族に、三尾氏が2氏族みられます。
その二人の妃から皇子と皇女が6人生まれています。
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継体天皇の母の先祖は「三尾氏」とされ、三尾氏は継体天皇の妃にもなっています。
継体天皇の父も「三尾」の別邸に住んでいたといいます。
継体天皇と「三尾氏」は深い関係があったとみられるのです。
その先祖が垂仁天皇の皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)です。
11代垂仁天皇皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)
『先代旧事本紀』「国造本紀」には、
羽咋(はくい)の国造(くにのみやつこ)初瀬朝倉朝(はつせのあさくらのみかど、第21代雄略天皇)の御代に、三尾の君の先祖、磐衝別命(いわつくわけのみこと、磐衝別命、石衝別命)の御子の石城別(いわきわけのみこと)を国造に定められた
とあります。
継体天皇を輩出した背景には、母方の出身氏族の三尾氏という大きなバックボーンがうかがわれます。
その先祖が垂仁天皇の皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)です。
垂仁天皇は、北陸道将軍の大彦命の娘を母とします。
この磐衝別命(いわつくわけのみこと)と、その御子の磐城別命(いわきわけのみこと)の御陵が石川県羽咋(はくい)市の羽咋神社にありました。
【親】磐衝別命(いわつくわけのみこと)
【子】磐城別命(いわきわけのみこと)
磐衝別命(いわつくわけのみこと)を祭る羽咋神社
磐衝別命(いわつくわけのみこと)の御陵
磐城別命(いわきわけのみこと)の御陵
御子の磐城別命(いわきわけのみこと)の御陵は、親の磐衝別命(いわつくわけのみこと)の御陵に隣接しています。
羽咋(はくい)といえば「大国主命」を祭る「気多(けた)大社」が有名です。
能登半島の付け根に位置する要衝地に、次々と統治する人々によって神々が祭られているようです。
羽咋(はくい)神社と磐衝別命(いわつくわけのみこと)の御陵
金沢駅からJR七尾線で1時間ほどで、羽咋駅に着きます。駅前の商店街を進むと、まもなく羽咋神社がありました。
町の中心です。
また、羽咋駅に近い八幡社は、磐衝別命が居館があったところとされて、ここもお祭りしています。
古代史学者の安本先生によると
「古い神社は、もとは宮殿であったところが多い」
とおっしゃっています。
磐衝別命は、こよなく相撲を愛していたと伝えられています。
それで羽咋神社から600メートルほど離れた唐戸山で「相撲神事」が行われています。
商店街には、その相撲のポスターが貼られていました。
例祭日の9月25日(旧暦8月25日)は、磐衝別命の命日で、その故人の鎮魂のための相撲神事だそうです。
大関となったものは、神社から神前の供物(くもつ)が授与され、能登・加賀・越中の相撲の親方の栄誉が与えられます。
はるか畿内方面から開拓統治に派遣された垂仁天皇の皇子でしたが、立派に任務を遂行されて、今なお子々孫々に渡って、地元の人々から大切にされているのがわかりました……
羽咋神社の境内は、磐衝別命(いわつくわけのみこと)の御陵があることから御陵山といわれ、沸き出る清らかな水を『御陵山の霊水』として大切にされていました。
神社の境内に磐衝別命と磐城別命の御陵の森がありました。
御陵の前にたつと、不思議に涙が湧いてきました。
「はるばる大和からこの地まで来られてご苦労さまでした。ご子孫からは、継体天皇も輩出されて、ご立派に天皇家を再興されました」……(涙)
大和朝廷の草創期に、大和からはるばる使命を帯びて、この地の開拓統治に励まれたのです。
見事に任務を遂行されて、今もなお住民に慕われる磐衝別命(いわつくわけのみこと)です。
御子の磐城別命(いわきわけのみこと)も良い政治をしたでしょう。
そういうことは、地元の人々に語り継がれるものです。
とても豊かな暖かな気持ちで、帰路の七尾線の列車に乗りました。