こんにちは!yurinです。
兵庫県の中央を流れる加古(かこ)川。

加古川
姫路平野の中心部を南に流れ、播磨灘(はりまなだ)に注ぐ全長八十六キロの兵庫県で最も長い川です。下流では印南(いなみ)川とも呼ばれました。
源流の氷上(ひかみ)郡の遠坂峠付近が分水嶺となって、この地点を境に北へ流れる由良川は日本海へ注ぎこみ、南へ流れる加古川は瀬戸内海へ注ぎこみます。
加古川と由良川は古い時代から播磨地方と丹波地方を結ぶきわめて重要な交流ルートとなっていたとみられます。
畿内の大和勢力と山陰の出雲勢力の接点です。
下流は加古川と高砂市にまたがる大きな三角州(デルタ)を形成しています。
加古川の東岸の旧氷丘(ひおか)村(加古川市加古町)に丘陵があります。
最も高いところでも60mに満たないほどですが、日岡山(ひおかやま)とよばれます。

日岡山
目次
日岡山と日岡神社
『播磨国風土記』には、「狩りをしていたとき、一頭の鹿がこの丘に走り登って比比(ひひ)と鳴いた。このためこの丘を日岡と名づけた」とあります。
加古川の「かこ」は「鹿子」で、大和の香具山の語源と同じく「鹿子山」とする説もあります。
鹿の子のまだら模様に似た樹皮の木を「かごのき」といい、神社の社叢でもしばしば目にします。里山の鹿と共生してきたのも、私たちの先祖でした。
日岡山の西南山麓には「日岡神社」があります。

日岡神社
主祭神は天伊佐々比古(あまのいささひこ)で、相殿には天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊玉比売命(とよたまびめのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがたふきあえずのみこと)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)をお祭りします。
『延喜式』神名帳には「日岡坐天伊佐々比古(ひおかますあまのいささひこ)神社」とあります。
一方で、『播磨国風土記』には、日岡に祀られる神は、大御津歯命(おおみつはのみこと)の子の伊波都比古命(いわつひこのみこと)と書かれています。
日岡神社の主祭神の天伊佐々比古(あまのいささひこ)は、四道将軍の一人として吉備へ派遣された彦五十狭芹彦(ひこいさせりびこ)、すなわち吉備津彦とも伝えられています。
吉備津彦は第7代孝霊天皇の子で、吉備地方を平定したときの話が、桃太郎伝説のモデルになったといわれているほどです。
一族の天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)は祖神を祭ったとされます。
一方『播磨国風土記』の伊波都比古命(いわつひこのみこと)の「伊波」は「いなみ」とも読めます。
印南(いなみ)地方をお治めになられるお方、という意味で、地方の人々からの呼称であったかもしれないです。
印波と印南という名の共通性からみて、稲美姫(印南姫)の一族に関係する人物とみられます。
安産祈願は長男出産が難産だったから
日岡神社の社伝によると、櫛角別王(くしつのわけのみこ)は、景行天皇と稲美姫の長男とされます。
稲美姫が櫛角別を産んだとき、難産で苦しんだとのこと。そのため、稲美姫が第二子を身ごもった時は、安産を祈って「亥巳籠(いみごもり)」が行われたとされます。
今でも日岡神社の年中行事として、旧正月の亥(い)の日から巳(み)の日までの八日間にわたって「亥巳籠(いみごもり)」がおこなわれます。
安産のための神へのお供えがなされ、頭人(とうにん)が定められます。
神殿を榊で囲い、しめ縄を張り、柱には鈴が結わえられるものの、いっさいの音が禁じられます。
そして、亥巳籠(いみごもり)明けの午(うま)の日には、頭渡しと的射(まとい)の神事がおこなわれます。
よほど大切な出産の祈願であったのでしょう。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の誕生
景行天皇と稲美姫の第二子は、なんと!双子の男児でした!
大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(おうすのみこと)と名付けられました。
この小碓命こそが、日本武尊です!
日本武尊の出産逸話は、『日本書紀』に記されています。
大碓皇子(おおうすのみこ)・小碓尊(おうすのみこと)は、 一日(ひとひ)に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生(あ)れませり。天皇(すめらみこと)異(あやしび)たまいて、すなわち碓(うす)に叫(たけ)びたまいき。
(オオウスノミコ・オウスノミコは、同じ日に双子でお生まれになった。天皇は不思議に思われて、臼(うす)に向かって叫び声をあげられた。)
因(よ)りて、その二(ふたはしら)の王(みこ)を名づけて、大碓(おおうす)・小碓(おうす)と曰(もう)す。
(それで、お二人の皇子を名付けて、オオウス・オウスと申し上げた。)
この小碓尊(おうすのみこと)の名は日本童男(やまとおぐな)。または日本武尊(やまとたけるのみこと)と曰(もう)す。幼(わか)くして雄略(おお)しき気(いき)まします。
(オウスノミコトのまたの名をヤマトオグナ、ヤマトタケルノミコトと申し上げる。幼い時から雄々しい性格であられた。)
壮(おとこざかり)に及(いた)りて容貌(みかお)魁偉(すぐれたたわ)し。身長(みたけ)一丈(ひとつえ)、力能(ちからよ)く鼎(かなえ)を上げたまう
(壮年になると、容貌はあふれるほどのたくましい顔つきであられた。身長は1丈(1.7メートル)、力は軽々と鼎(青銅でできた鍋)を持ち上げるほどであった)
景行天皇は双子が生まれたと聞いて、いぶかしく思い、臼にむかって大声を上げてしまいました。
このため、兄を大碓(おおうす)、弟は小碓と名づけたといいます。
古代において、難産のとき、夫は臼を背負って産屋のまわりをまわる習俗があり、今もそれが残っている地があるそうです。
夫も妻の出産の苦痛を共にするという意味とみられます。
景行天皇は二人目が生まれるまで、ずっと重たい臼を背負って歩かなければならなかったため、つい臼にむかって「どうにかしてくれ」と叫んでしまったのかもしませんね^^
双子なんて、さぞかし驚いたことでしょう!
弟の小碓は、またの名を日本童男(やまとおぐな)といい、のちの日本武尊(『古事記』では倭建命)、いよいよヤマトタケルの誕生です!
たらいで産湯につかる双子の絵馬
日岡神社の社伝によると「美乃利(みのり)」という場所で出産したとされます。産湯をつかわせた「たらい」があるそうです。
……残念ながら訪れた時、たどりつくことができなせんでした(泣)
……その後、ネットの記事で拝見することが出来たのでした!
フォトで見てしまうと、ぜひとも実物が見たくなるのが人情です^^
日岡神社では、たらいで産湯を浸かる大碓命と小碓命の微笑ましい姿が、絵馬になっています。

日岡神社の絵馬
勇武で名を馳せた日本武尊にも、確かにこういう時代があったのでした。
師走の小春日和の日に参拝すると、お宮参りの親子連れが、次々と訪れています。
日本武尊の故郷で、このような光景が見られたのは、実にうれしくほのぼのしました。
私(yurin)は、絵馬にこれから出版する本の成功を祈願しました。

日岡神社の絵馬
「ここでこそ祈願!」と、思いを託して千葉から足を運んだのです。河村先生に報告するために、フォトをとっておきました^^
河村先生と私の共著はこちらです。
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