継体天皇に足羽神社を託された馬来田(うまくた)皇女

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こんにちは!yurinです。

継体天皇がお祭りされている足羽神社でご朱印をいただき、神職の方に千葉から参拝にきたことをお話しすると、すぐに

「『先代旧事本紀』の「馬来田国造(うまくたのくにのみやつこ)をご存知ですか?」

と、お尋ねになりました。

さらに、

「継体天皇の馬来田皇女がこの神社をお祭りしました。馬来田皇女は御子がいらっしゃらなかったので、養子をとられてその子孫が神職として現在まで続いてきました。私で60代です。」

 

ここで思いがけず『先代旧事本紀』が出てくるとは!しかも郷土の千葉県ゆかりの地名をもつ皇女がご先祖です!

『先代旧事本紀』の「馬来田(うまくた)」も、『日本書紀』で継体天皇の「馬来田皇女(うまくたのひめみこ)」も、私の脳裏には、もちろんしっかり刻まれていました(大拍手)!

『先代旧事本紀』に馬来田(うまくた)の国造

『先代旧事本紀』巻10には、

馬来田(うまくた)の国造(くにのみやつこ)
志賀高穴穂朝の御世(第13代成務天皇)に、茨城の国造の先祖、建許侶命(たけころのみこと)の子の深川意彌命(ふかがわおみのみこと)を国造(くにみやつこ)に定められた

とあります。

茨城の国造の先祖は、天照大神の第5子の天津彦根命(あまつひこねのみこと)です。

また馬来田(うまくた)の国は、上総国望陀(もうだ)郡、今の千葉県木更津市・袖ケ浦市など小櫃(おびつ)川流域付近です。

小櫃川

「うまくた」は、訛って「もうた」「まくた」になっています。

 

「望陀布(もうだぬの)」は、この地の特産品の麻織物です。

麻織物イメージフォト

野ヶ里遺跡にて

律令制のもとで、最高級品とされ、大嘗祭などの宮中祭祀や遣唐使の贈答品として利用されました。

大嘗祭で奉納される上質な白い織物 イメージフォト

野ヶ里遺跡にて

『古語拾遺』に記されたように、忌部氏が房総半島に上陸して、麻の栽培技術や織物技術を伝えたとみられます。

「総(ふさ)」の国の由緒を伝える望陀(もうだ)布です。

 

祖父母の家のある市原市の隣の木更市には、JR久留里(くるり)線の馬来田(まくた)駅があります。

「うまくた」の「う」が抜け落ちて、今では「まくた」になっています。

駅前に『万葉集』の歌碑がたっています。

馬来田の  寝(ね)ろに隠れ居(い)  かくだにも  国の遠かば    汝(な)が目欲りせん

『万葉集』巻14  3383

(馬来田の山々に隠れるようにいるだけで、あなたに逢いたくて仕方ないのに、ここから離れてしまったら、どれほど恋しく思うことでしょうか)

 

「うまくたの里」には、道の駅や、万葉植物園もあります。

 

どうしてこんな地方の地名が、継体天皇の皇女のお名前になっているのかしら?とは、常々考えることでした。

 

郷土の地名が『日本書紀』にチラリとでもあれば、決して見落とさないものです(微笑)

『先代旧事本紀』「国造本紀」を読んで、初めて示唆を得ました!

馬来田の国造と息長(おきなが)氏は関係がある?

馬来田(うまくた)の国造(くにのみやつこ)の祖先神は、天照大神の第5子の天津彦根命(あまつひこねのみこと)です。

天津彦根命(あまつひこねのみこと)は、琵琶湖の「彦根」の地名の由緒とされる神名です。

馬来田皇女の母の広媛は、坂田の大跨王(おおまたのおおきみ)の娘とあります。

「坂田」は、息長氏の本拠地です。息長氏の一族とみられます。

 

息長(おきなが)氏は、第14代仲哀天皇妃の神功皇后を輩出したのをはじめ、皇室とつながりの深い氏族です。

琵琶湖から淀川水系〜大阪湾まで広がる、古来の名族です。継体天皇ご自身も、息長氏と深く係わっているようです。

そして息長氏は、天津彦根命の御子の天御影命(あまのみかげのみこと)を祭神とする御上(みかみ)神社(滋賀県野洲市)ともかかわります。

同じ祖先神を祭る氏族は同族意識でつながっているようにみられます。

千葉の馬来田の国造家と、滋賀県の息長氏は関係があったように考えられるのです。

さらに馬来田皇女の周囲に、望陀(もうだ)布などの織物と関わりもあったのでしょうか。

織物イメージフォト


野ヶ里遺跡にて

継体天皇が大切にした農業と機織り

『日本書紀』は継体天皇が、農業、養蚕、機織(はたお)りを大切にされたことを記します。

男子が耕作を怠ると、飢えで苦しむことになります。
そして女子が糸を紡(つむ)がないと、天下に人々は凍(こご)えてしまいます。

雪国で成長された継体天皇ならではの、重みのあるお言葉です。

雪に閉ざされた冬の間だからこそ、いっそう女性たちは機織(はたお)りに精神を込めたのでしょう。

 

かれ、帝王(すめらみこと)御身(おおみ)自(みずか)ら耕(たつくり)て、農業(なりわい)を勧(すす)め、后妃(きさき)親(みずか)ら蚕(こがい)して、桑の時を勉(すす)めたまう。

(それで帝王はみずから耕作して農業を奨励して、皇妃もみずから養蚕をして、桑を施す時期を怠らないようにするのです)

 

いわんや、かの百寮(つかさつかさ)、万族(おおみたから)に至るまでに、農績(なりわいをうむこと)を棄(す)てて、賑わいに至らむや。司(つかさ)、天の下にのたまいて、朕(わ)が懐(おも)わむことを識(し)らしめよ。

(まして百の役所から、万人に至るまで、農業と養蚕を怠っては、富み栄えることはできないでしょう。どうか役人たちは、このことを天下に告げて、私の思うところを人々に知らせるように)

 

継体天皇の妃や皇子皇女たちの名称には、農産物や機織りにゆかりの人名がみられます。

麻績娘子(おみのいらつこ)の「麻績(おみ)」は、麻を紡(つむ)ぐこと、麻織物を織る職人です。

荳角皇女(ささげのひめみこ)の「ささげ」は、豆の一種で、小豆(あずき)より大きく、赤飯と炊きこんだりするお豆のことです。

こうしたことからみると、馬来田皇女(うまくたのひめみこ)の名称からは、優秀な織物の産地に因んで、その地の織物や職人との交流があったように考えられます。

継体天皇をご立派に育んでくれた、第二の故郷の越前の国(福井県)でした。

万感の思いを込めて……馬来田皇女に足羽神社を託して神々を祭らせたのでしょう。

自らの生霊までも……

 

継体天皇は、大和入りには、相当な慎重な姿勢がうかがわれます。

あちらでは、果たして何が待ち受けているのか?たとえ無事に大任を成就しても、再びこの地に戻ってくることはないかもしれない。

けれどもずっと、ご自身の行く末に幸いあれと、見守ってくれるように。そしてご自身の分身がこの地で生き続けるように、と。

 

継体天皇が馬来田皇女に託した足羽神社の第60代宮司をされるのが、馬来田善敬(まくたよしもり)氏です。

馬来田宮司にいただいたパンフレット

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