こんにちは!yurinです。
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白石川の白鳥信仰から、日本武尊の白鳥伝説が始まった
日本武尊が東北に置いた行宮(かりみや)の一つ、大高山の地は、白鳥の飛来地でした。
大高山はこのあたり↓
『景行天皇と日本武尊 列島を制覇した大王』より日本武尊東征路図
近くを流れる白石川には、おびただしい白鳥が群れをなして集まる、と聞いていました。
古代人は、空を飛ぶ鳥に畏敬の念を感じたのです。
東北地方においては「白鳥は神の使い」と考えて、落ちている白鳥の羽一枚さえを大切に神祭りしたという伝承もあるほどです。
柴田郡から苅田郡にかけて、白鳥伝説と白鳥信仰が色濃く分布しています。
日本武尊の東征期間は詳らかではないですが、これまでの行程からみて、ひと冬を越したことはまちがいありません。
温暖な西国で生まれ育った日本武尊にとって、北日本の寒さや雪の到来は想像を絶したものであったでしょう。
陸奥国の南端部近くに行宮を構えたのも、少しでも厳寒を避けようとしたのかも……。
大高山の行宮で冬を過ごし、大和への望郷の念が高まった日本武尊にとって、川原に飛来した白鳥の群れを見ることは、大きな喜びであり、慰めであったと思います。
灰色の羽の幼鳥が、少しずつ白い羽になり、美しい姿に変身するのです。
真っ白な色、美しく優雅な容姿、餌をついばんだり、戯れたり、毛づくろいする様子――そのすべてに神々しい気品があります。
そして、はるか遠くの天の果てから飛来し、春になればまた去っていく。
私たちも、きっと来年には都へ帰ろう、と。
日本武尊は、白鳥を見ながら、遠い都へ帰還できる日を待ち望んだのです。
天皇家の先祖たちと鳥
もともと天皇家の先祖たちは、神々が乗る船を、「鳥の磐楠船(いわくすぶね=大空を飛翔する鳥のように自由に駆け巡る頑丈な楠の船)」と称えた人々でした。
鳥は神霊の宿る神の使者であり、航海で迷ったときは陸地の方向を教えてくれます。
岩戸にこもった天照大神を呼び戻そうとして集められたのも、「常世(とこよ)の長鳴き鳥」でした。
鳥は死者を黄泉の国へ導き、この世にもどしてくれるのです。
熊野の山中で神武天皇軍を道案内したのも、「八咫烏(やたがらす)」でした。
垂仁天皇の皇子は、「くぐい」という鳥と戯れているうちに、失っていた言葉を取り戻すことができました。
鳥は神の使いであり、古代の日本人と天皇家を守る守護神といえるのでしょう。
日本武尊もその伝統を引き継いで、とりわけ白鳥を愛したのです。
白鳥を大切にする日本武尊と兵士たちに、地元の人々も次第に和んだのではなかったでしょうか。
まさしく「みちのく遠征のあかしの白鳥」でした。
東征の最後に思わぬ死を遂げてしまった日本武尊は白鳥となって天に昇った、と人々から信じられたのです。
日本武尊の御子の仲哀天皇の即位
『日本書紀』の仲哀天皇紀には、日本武尊の子である仲哀天皇の次の言葉が記されています。
「朕(われ)、未(いま)だ弱冠(こうぶり)に及ばずして、父(かぞ)の王(きみ)、既(すで)に崩(かむさ)りましぬ。
すなわち神霊(みたましい)、白鳥(しらとり)と化(な)りて天(あめ)に昇ります。
しのびたてまつる情(こころ)、一日(ひとひ)も休むことなし。
ここをもちて、願わくは白鳥を獲(え)て、陵(みささぎ)の域(めぐり)の池に養(か)はむ。
よりて、その鳥を見つつ、顧情(しのびたてまつるこころ)を慰(なぐさ)めんと欲(おも)う。」すなわち諸国(くにぐに)に令(のりごと)して、白鳥を貢(たてまつ)らしむ。
(「私がまだ成人する前に父上は亡くなられて、その魂は白鳥となって天に昇って行かれました。
父上をお慕い申し上げる気持ちは一日もやむことはありません。
できれば、その白鳥を御陵の回りのお堀の水に浮かべておきたいものです。
その白鳥を見て、心の慰めにできたらと思います」と、諸国に命じて、白鳥を献上させました)
第14代仲哀天皇は、叔父(日本武尊の弟)の成務天皇を継いで、天皇に即位しました。
父の日本武尊が即位していない状況で、異例の皇位継承方法です。
おそらくは景行天皇の遺言であった、と。これについては古代史研究家の河村先生と同感です。
さらに、万人の日本武尊への思慕があった、と思うのです。
こうした通例にない継承を記すのも『古事記』『日本書紀』に真実味があります。
かつて父の日本武尊の御陵の前で泣き叫んでいた、妻と御子たちの一人に、幼い仲哀天皇もいたのですね(泣)
せめて日本武尊にも、つかの間の大和の生活であっても、妻や幼子たちと平穏に過ごした時間があったこと、その幼子が成長して天皇に即位したことを喜びたいと思います(微笑)。
天皇として即位した仲哀天皇は、父の日本武尊を偲び、諸国に命じて、白鳥を献上させました。
仲哀天皇の詔を受けて、刈田郡付近から白鳥を献上したかどうか記録にはないですが、日本武尊が行宮を置き、しかも白鳥を愛でたこの地のことは、天皇の耳にも入っていたようです。
仲哀天皇元年、この地に神田を置いて、刈田神社に白鳥神社を合わせ祭ったとされます。
白鳥は異変に敏感で、二度と飛来しなくなるとされます。
仲哀天皇も古来の言い伝えを厳守して、この地の白鳥を献上させるようなことはしなかったのではないでしょうか。
その他の地域でも仲哀天皇のゆかりの白鳥神社の伝承に出会うことが、しばしばあります。
『古事記』の仲哀天皇の姿が、地方からも見えてきます。
角田市の白鳥と熱日高彦神社
季節は12月、期待に胸をはずませて白石川の白鳥飛来地を訪れました。
そして待望の白石川を初めて臨むと、なんと!1羽の白鳥も見当たらないのでした!?トホホ……
狐につままれたような思いで、周囲を見渡すのですが、白鳥の陰も形もありません(大汗)
「白鳥はいないのですか?」と、そこに居合わせた地元の方に聞いてみました。
「時間や天候によって、あちこちに行っているようですよ。今日はここにいないから、角田の方へ行っているんじゃないかな?」
とのことでした(汗)
神社や古墳もさることながら、白鳥飛来の時期に合わせて企画した旅でしたが、思わぬハプニングでした(大汗)
それでもと気をとりなおして、角田市の方へ行ってみることにします。
白石川から阿武隈川の流域にでました。
悠々ゆったりと流れる大河です。
……が、白鳥はいませんでした(泣)
日本武尊は往路、船団を組んで、海路を北上しましたが、復路はこの阿武隈川を下り、東山道を通って帰還したとみられます。
『同著』より日本武尊東征路図
阿武隈川添いには、福島~郡山~須賀川と大きな町があります。
このゆったりと流れる河川の風景を見たのは良かったです。
角田市の熱日高彦(あつひたかひこ)神社を参拝することにしました。
熱日高彦神社参道
何やら「日高見(ひだかみ)の国」を想起する名称の神社です。
拝殿
宮城県の石巻市桃生には式内社の「日高見神社」がありますが、しばしば「日高見国(ひだかみのくに)」とは何か?としばしば議論されるところです。
「日高見」は、日が昇る地、という意味で、大和政権が東方へ進出するにつれて、その範囲は東へ移動しているようです。
新潟県の上越地方の式内社斐太神社に「日高見の国」の伝承がありました。
それは出雲の大国主命が、その土地を「日高見の国」といったそうです。
常陸の国を「日高見の国」だということは『常陸国風土記』にあります。
その日高見の国を思わせる名称の神社です。
祭神は、ニニギノミコトと日本武尊です。
神社の祭神の表記は、『古事記』の表記です。
天津日高比古番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)
『日本書紀』では、次のような字を書きます。
天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)
『古事記』の表記をもとに、「日高比古(ひこひこ)」を、「ひた(だ)かひこ」と、読み方を変えて伝えたのかしら?
あるいはもしかして、ニニギノミコトの正式名称は、「あまつひた(だ)かひこ」かしら?……と考えることも出てきました。
『延喜式』の式内社で伊具郡の惣社です。
神社の西方3キロほどのところに奈良時代の郡の役所があり、角田郡山遺跡として発掘されています。
日本武尊が社地の大森山の山麓に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祭ったのが始まりとされます。
その後、日本武尊が亡くなってしまいます。
景行天皇は、皇子の功績を偲んで、勅命によって社殿を建てて、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に合わせて日本武尊を祭りました。
景行天皇の勅命の神社とは、たいしたものです(拍手)。
景天皇は、東国に足を運び、日本武尊の遠征の情報を入手したのでしょう。
為政者としての政治判断だけでなく、息子の遠征を無にしたくないという、暖かい親心も感じます。
春の例大祭で、丸森町小斎の鹿島神社(武甕槌神)と、角田市尾山大谷の香取神社(経津主神)の神輿が集結して渡御を行ったそうです。
今は香取の御神輿だけになっているようですが、タケミカヅチ・フツヌシ・日本武尊は東国の軍神として信仰されています。
山麓に駐車して、かなりの急坂の長い階段ですが、息を切らせて登りました。
境内にたどりつくと、社殿近くまで入っている車を発見!私たちは表参道以外の参道を上がったようです(汗)
杉の巨木は、往時はさらに鬱蒼としていたそうですが、戦時中の政策では、社叢を伐採して供出せざるを得なかったそうです。
戦後は神社の領地も召し上げられたとのことで、なんとも神社の歴史の悲哀も感じました。
日本武尊、景行天皇ゆかりの神社を大切にしている様子が伺われて、繁栄を祈願してやみません(拝)
みちのくの白鳥との思いがけない出会い
この神社を参拝すると、周囲は日没後の薄暗がりの時間帯になっていました。
ですが、参拝の御利益があったのです!!
車で、その日の宿泊先の遠刈田(とおかった)温泉に向かっていると、「手代木沼」の案内板がチラリと目に入りました。
全くの偶然でしが、この地名に、白鳥の飛来地としての記憶があったのです!
あわてて車を駐車しました。夕闇の林の中を、恐る恐る歩いていくと、「あ、いた!声がする」と、夫。
沼は小さな丘の向こうなので、姿はまだ見えませんが、耳をすますと、確かに聞いたことのない鳴き声がします。
くぐもったクウクウというような音がたくさんします。
ようやく林が開かれて、沼に浮かぶたくさんの白鳥が見えて、感動でした!鴨たちも仲良く泳いでいます。
夕闇が迫った沼畔で、たった一人の老人が見入っていました。物語のような光景です。
「昔はもっとオオハクチョウがたくさんいたんだがね」と、私たちに話しかけてくれました。
明日、白鳥に出会える確証はなく、このまま千葉へ帰るかもしれない、とも思い始めていたので、本当にうれしかったです(大拍手)
「7、8羽が家族になっているんだよ」
確かに白鳥たちの群れを観察していると、それくらいの数のグループでまとまっているのがわかります。
はるか遠い土地から、家族で支えあって渡ってくるのですね。
愛らしく仲の良いカップル白鳥もいました!
あちらへ向かって泳いでいたと思ったら、ほぼ全部の白鳥がクルリとターンして、キレイな隊列を組んで今度はこちらへ泳いできます。
「群れをなす」ことで、遠い空の旅も可能になるのだと実感します。
気持ちよそうに2羽で泳ぐ姿、隊列を組んで群れで泳ぐ姿など、さまざまな白鳥たちの動きを、いつまで見ていて飽きませんでした。
手賀沼より数が多いですし、大きな白鳥がいます。
千葉県の本埜(もとの)村の休耕田の白鳥も有名になりましたが、なんといっても、ヤマトタケルゆかり地での白鳥ですから、気持ちが全く違ってきます。
フォトでは、実際よりも明るく写っていますが、もはや宵闇の中で白鳥を観察している状況です。
日本武尊も従者たちも、この白鳥の愛らしく、崇高な姿に、どんなに励まされたことでしょうか。
こうして白鳥とともに、かけがえないみちのくの旅の1日を終えることができました^^
ヤマトタケルの東征路図はこちらから
『景行天皇と日本武尊 列島を制覇した大王』
気になった方はぜひ手に取ってみてくださいね!