こんにちは、yurinです。
織田信長の熱田の神さまへの思いにふれて、日本武尊と草薙(くさなぎ)の剣にふれておきたくなりました。
白鳥が羽ばたく日本史上の名場面
もう15年も前になりましたが、大河ドラマ「利家とまつ」で、桶狭間(おけはざま)へ向かう信長が、熱田神宮に軍勢を集結した場面です。
信長からの密かな命を受けて、浪人中の利家とまつは、白鷺を捕らえて、いよいよ出陣という時に、その鳥を大空へ放ちます。
青い空に舞い上がった白鷺を見て、マツケンの柴田勝家が軍勢を鼓舞激励するのです!
「あの白鷺は吉兆なり!わが親方さまの勝(かち)は見えたり!」と。
「おおっ!!」と、雄たけびをあげて、いっせいに桶狭間の戦いへ出陣する信長軍。
戦いに臨むには、なんといっても縁起をかつぐもの。
それが全軍の士気に大きくかかわります。
熱田神宮からの出陣と白鷺の伝承を、信長ならではのパフォーマンスという視点でとらえ、臨場感あふれる印象深い場面として心に残っています。
白鳥はヤマトタケルの化身でした。
『日本書紀』には、
「日本武尊(やまとたけるのみこと)、白鳥と化(な)りたまいて、
陵(みささぎ)より出で、倭国(やまとのくに)を指して飛びたまう。群臣(まえつきみたち)よりて、その棺(ひつぎ)開きて見たてまつれば、
明衣(みそ=死者が着る喪服)のみ空しく留まりて、屍骨(みかばね)は無し。ここに、使者(つかい)を遣わして白鳥を追い求めぬ。
すなわち倭(やまと)の琴弾原(ことひきはら)に留まれり。
よりてその処(ところ)に陵(みささぎ)を造る。
白鳥、また飛びて河内(かわち)に至りて、古市邑(ふるいちむら)に留まる。
またその処(ところ)に陵(みささぎ)を作る。
かれ、時人(ときひと)、この三つの陵(みささぎ)を名づけて、白鳥陵(しらとりのみささぎ)という。」
とあります。
日本武尊は、大和へ凱旋目前の伊勢の能褒野(のぼの)であえなく最期をとげたのです。
30才の若さであったとされます(大泣)
鈴鹿市加佐登神社は、日本武尊の終焉の地とされ、笠と杖をご神体とし、白鳥陵が祭られています。
さらに父の景行天皇は、正式な御陵を造営したとみられ、三重県亀山市「能褒野王塚古墳」が宮内庁によって治定されているほか、奈良県御所市富田および大阪府羽曳野市軽田の2か所も白鳥陵に治定されています。
おそらく大切な先祖を偲んで子孫がそれぞれ追葬したものとみられます。
日本武尊の御子の第14 代仲哀天皇、第21代の雄略天皇が関係しているのではないでしょうか。
遠征先に残された縁者たちも、それぞれ遺品を納めて、御陵を営んでお祭りしたのでしょう。
そして日本武尊は白鳥となって蘇生し、現世の人々の心に生き続けてきました。
時代が下り、日本武尊の伝承が広まると、白鳥に限らず、白い鳥であれば、それも日本武尊の現(うつ)し身とされたのです。
日本武尊(やまとたけるのみこと)と草薙の剣
信長も信長の軍勢の人々も、白い鳥は熱田の神さまのお使いと信じていました。
そして熱田の神さまとは
「草薙(くさなぎ)の剣を抱く日本武尊(やまとたけるのみこと)の雄姿」
にほかなりません。
出雲の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、草薙の剣は、高志(こし)の八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った時に、入手したという神の剣です。
剣からは常に雲気がわき上がることから「天の叢雲(むらくも)の剣」といわれました。
三種の神器の一つです。
素戔嗚尊から高天の原の天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上されました。
日本武尊は東国への遠征に際して、大和からわざわざ遠回りしてまでも伊勢神宮を参拝しました。
八咫(やた)の鏡と神剣は宮中から出されてお祭りされていましたが、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)が、天の叢雲(むらくも)の剣を、東国遠征に向かう日本武尊に授けたのです。
日本武尊は、駿河の国で賊に襲われて焼き討ちに遭いますが、その神剣で草を薙ぎ払って九死に一生を得たのです。
それで神剣は「草薙(くさなぎ)の剣」ともよばれるようになりました。
日本武尊は、見事に東国を平定し尾張まで凱旋します。
そしていよいよ尾張を離れて伊吹山の賊を平定に向かう時、
尾張氏の宮簀媛(みやずひめ)に、その「草薙の剣」をたくして出陣するのです。
しかし伊吹山の神に翻弄されて、心身を衰弱させてしまい、大和への帰還目前、ついに伊勢の能褒野で生涯をとじることになってしまいました。
若さゆえにできた渾身(こんしん)の進軍も、その疲労はピークに達していたのではないでしょうか(涙)
つづく