こんにちは、yurinです。
大切な方を亡くした時、あの人は星になった、花になった……と思い、心の平静を得たことはないですか?
日本武尊とともに従軍した人々もそうだったのでは……?
あとひと息というところで、大和へ帰還できなかった、日本武尊の無念。
その一方で、無事に帰還した人々もいました。
ミコトさまとご一緒でこそ、心からの凱旋を喜べたのに……。
大空に飛翔する白鳥を見た時、「そうだ、ミコトさまは白鳥になられたのだ。」と、思ったのではないでしょうか。
日本武尊の御陵から飛び立つ白鳥
大和への帰還目前の伊勢の能褒野(のぼの)、現在の三重県鈴鹿市の加佐登(かさど)神社の地で、日本武尊はついに生涯を閉じました。32才でした。
能褒野はこちら↓
『景行天皇と日本武尊 列島を制覇した大王』より日本武尊東征路図
加佐登(かさど)神社で、杖と笠を形見のご神体としてお祭りしたそうです。
加佐登(かさど)神社
加佐登神社には白鳥塚という古墳があります。
日本武尊の墓とされる古墳は、いくつかあります。
それぞれの地で、時代が下っても日本武尊を慕う子孫が追葬したものと考えています。
能褒野王塚古墳は、父の景行天皇が、正式に作らせた御陵なのでしょう。
能褒野御陵
能褒野御陵の森
『古事記』の景行天皇の段には、御陵での葬送の記事がのっています。
妃や御子たちが悲しみのあまり立っておられず、這いつくばるように嘆く様子があります。
おりしもその時、御陵から、一羽の大きな白鳥が飛び立ちました。
ここに八尋(やひろ)白つ鳥に化(な)りて、天(あめ)に翔(かけ)りて、浜に向きて飛び出(い)でましき。
ここにその后(きさき)また御子(みこ)たち、その小竹(しの)の苅杙(かりくい)に、足切り破れども、その痛きを忘れて、哭(な)きて追いたまいき。
(その時にヤマトタケルノミコトは大きな真っ白い鳥になって、天に向かって、そして海辺へ向かって飛んでいかれたのです。
それで后や御子さまたちは、笹の切り株で足を切って負傷してしまうほどでしたが、その痛さも忘れて泣き叫んで、白鳥のあとを追われました……)
日本武尊の御陵から白鳥が飛び立ったのは偶然のことでした。
それは人々の心象風景だったのでしょうか。
……ですが、日本武尊の東征に従軍し、無事に凱旋した兵士たちの間からは、身近で白い鳥をみるたびに「あれはミコトさまだ」という声があがっていたように思われるのです。
はるばるみちのくの地まで遠征した日本武尊と兵士たちが、その真っ白く気高い白鳥の美しさを目にして、長く辛い軍旅を慰められたことがあったのでしょう。
白鳥こそ、敬愛する日本武尊の生まれ変わりだったのです。
古墳から出土する「水鳥型埴輪」といわれる副葬品があります。
当時埴輪を製作した人々も、奉納してお祭りした人々も、
そして被葬者も日本武尊ゆかりの人物に思われてきます。
古墳の副葬品の一つ一つも、古典を読み解くことで、