天皇制を確固たるものにした神武天皇の皇子 神八井耳命【2】

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天皇制を確固たるものにした神武天皇の皇子 神八井耳命【1】のつづきです。

弟に皇位を譲り「忌人(いわいびと)」になる神八井耳命

比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)は、二人の御子に危険が迫っていることを歌を読んで知らせたことが『古事記』に記されています。

狭井河(さいかわ)よ 雲立ちわたり 畝傍(うねび)山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風吹かむとす

(狭井川の方から雲が立ちあがり、畝傍山では木の葉がざわめいています。大嵐が吹き起こりそうです)

媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすけよりひめ)を祭る狭井神社

畝傍山 昼は雲とい 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉騒(さや)げる

(畝傍山では、昼間は雲が揺れ動き、夕方になると、大嵐の前ぶれのとして、木の葉がざわめいています)

畝傍山

「どうか気をつけて」という、母からの密かな知らせを聞いて、二人の皇子は、身に迫る危険を察知します。

そこで、手研耳命(たぎしみみのみこと)が油断しているすきをうかがい、先手を打ったのでした。

 

やらなければやられる、という中で、手研耳命に手を下したのは、弟の神沼河耳命(かむぬなかわみみのみと)でした。

兄の神八井耳命は、手足が震え手を下すことはできなかったのです。

それで、「自分は、敵といえども、殺すことはできませんでした。あなたが天下を治めるべきです。私は、あなたを助けて、忌人(いわいびと、斎人)になりましょう」と、

神八井耳命は、皇位を弟に譲って、政治でなく祭祀を司って補佐しようと申し出ました。

 

兄と弟で祭政を司った時代の面影を残すとともに、末子相続の風習の時代を伝えたものともいわれます。

これも儒教流入以前の政治形態です。

 

神沼河耳命(神渟名川耳尊)は、第二代綏靖天皇として即位しました。

そして神八井耳命について、『日本書紀』は「多臣(おおのおみ=太氏)の始祖(はじめのおや)なり」と記します。

『古事記』を編纂するほどの太安万侶の先祖のことを、『日本書紀』も認めているのです。

神八井耳命を祭る長谷神社 上社(長野市)

『古事記』神武天皇の段に記される神八井耳命の後裔氏族

さらに古事記は、詳細に記します。

神八井耳命は、意富臣(おおのおみ=太氏・多氏)・小子部(ちいさこべの)の連(むらじ)・坂合部(さかあいべ)の連(むらじ)・火(ひ)の君(きみ)・大分(おおいた)の君(きみ)

阿蘇の君(きみ)・筑紫の三家(みやけ)の連(むらじ)・雀部(さざきべ)の臣(おみ)・雀部(さざきべ)の造(みやつこ)・

小長谷(おはつせ)の造(みやつこ)都祁(つげ)の直(あたい)・伊予(いよ)の国造(くにのみやつこ)・科野(しなの)の国造(くにのみやつこ)

陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)・常陸(ひたち)の仲(なか)の国造(くにのみやつこ)・長狭(ながさ)の国造(くにのみやつこ)・

伊勢の船木の直(あたい)・尾張(おわり)の丹羽(にわ)の臣(おみ)、島田の臣(おみ)の祖なり

(太字:古代史日和)

この中でも、神八井耳命の子孫が、勢力を広げた地域を見渡すと、由緒ある神社のあるスポットが目につきます。

阿蘇神社や諏訪大社をはじめ、伊勢神宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮、瀬戸内海の要衝にあり「日本綜鎮守」として朝廷や武将からから崇敬された大山祇神社などです。

 

また、みちのくの磐城(いわき)も、関東から東北地方への入口にあたり白河の関があるような地です。

大和地方の都祁(つげ)も、古くからの神々を祭ります。

神八井耳命の一族は、神武天皇の皇子として、日本列島の要衝を守護してきたのでした。

 

どの時代も初代の為政者が偉大な人物であることは、確かです。

その偉人の子孫が王朝としてさらに続くかどうかは、初代から2代目へ政権をどのように継承されるか、で結果が違ってしまうようです。

 

血筋もよく実力もあった饒速日命(にぎはやひのみこと)でしたが、南九州まで統治することはかなわずに亡くなってしまいました。

妻の兄の長髄彦(ながすねびこ)に、ほしいままにされてしまった感もあります。

饒速日命とともに下った三十二神といわれるそれぞれの勢力は、神武天皇と宇摩志麻治命をそれぞれ奉じる勢力に分裂してしまったのでした。

日本全国に拡大した神八井耳命の後裔

神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、神武天皇の死後の難局を乗り切る賢明さを持ち合わせ、その子孫は、九州から東北地方まで日本全国に拡大したのです。

まさに神武天皇の皇子として、畿内の天皇家を支えたのであり、その一族のおかげで天皇制は根付いた、といえるでしょう。

その皇子の繁栄によってこそ、父の神武天皇の偉大さも感じさせるのです。

四道将軍、景行天皇、日本武尊という、その後の天皇や皇子に従軍して、任務を遂行したのです。

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、第13代成務天皇の時代に派遣された国造の中に、神八井耳命の子孫の名称が見えます。

 

『古事記』『日本書紀』は各時代の天皇家のできごとを中心に記されています。

それで時代が下ると、中央の天皇家から離れた、神八井耳命の子孫の活躍の詳細は洩れている部分も多いのです。

けれども『先代旧事本紀』『常陸国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』などの記事は、『古事記』『日本書紀』の情報を補完し合っています。

 

さらに『延喜式』「神名帳」、地元の神社や古墳の伝承からも、神八井耳命の子孫の活躍は裏付けられます。

全国規模に拡大しているので、皆さんの地元の神社や古墳の中に、神八井耳命の一族ゆかりの史跡は、きっと気づかれると思いますよ!

 

田中卓氏先生の阿蘇神社の調査による、「阿蘇氏系図」は、神八井耳命の一族の、時代を追っての活躍がうかがわれる、貴重な資料となっています。

田中卓著作集2日本国家の成立と諸氏族に掲載されています。

こういう系図さえ、『古事記』『日本書紀』の記述を疑って軽んじる人々からは、古典も系図も造作創作!などいうのですから、いったい歴史学は何によってなされるのか、混乱に拍車をかけるばかりです。

流されずに真実をしっかり見極める目をもつことが大切です。

『古代史読本』「異本阿蘇氏系図」大平武子氏より

※クリックで拡大します

『古事記』を編纂した太安万侶の太(多)氏は、日本最古の皇別(天皇から分かれた)氏族とされる、神八井耳命の後裔氏族の中心的存在です。

多氏は神楽・舞など宮中の雅楽の伝承者でもありました。

『古事記』の序文を読むと、いかにこの一族の教養が高いものであったか、察することができます。

太安万侶の漢字の音訓を交えた表記は、後の日本語の文章の礎を築いたほどの、教養人でした。

 

太氏の本流は、大和国十市郡飫(お)富(ほ)郷(奈良県磯城郡田原本町)に居住して多坐弥志都比古(おおにますみしりつひこ)神社を祭ります。

「みしりつひこ」は、身を退くという意味で、皇位を弟に譲って退いた、神八井耳命を表しています。

つづく

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