ヤマトタケル東北遠征の足跡 大高山神社・白鳥神社

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こんにちは、yurinです。

あまり知られていないですが、ヤマトタケルは東北でのエピソードも豊富です。

たくさんあって語り尽くせないほどですが、今日は、2つの神社のお話をしますね。

白鳥飛来地の白石川にのぞむ大高山神社

日本武尊が行宮(かりみや)を置いた宮城県の白石川は、今も白鳥の飛来地として有名ですが、古くから「白鳥信仰」があったとされるほどの土地柄でした。

日本武尊が行宮を置いた宮城県の大高山もまた――「大高山神社」となり、『延喜式』の名神大社でした。

白石川と大高山神社 場所

『景行天皇と日本武尊 列島を制覇した大王』より日本武尊東征路図

 

『大高山神社縁起書』には次のようにあります。

敏達天皇元(五七二)年に創建され、日本武尊と橘豊日尊(第31代用明天皇、聖徳太子の父)を祭神とし、白鳥神社と呼ばれる。

この神社は「大高宮白鳥大明神」と呼ばれ、日本武尊が東征の時に、この地に仮宮を建てて白鳥神社と称したのがはじまりとします。

のちに橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)がこの地を訪れたので合わせ祭ったようです。

橘豊日尊とは、第31代用明天皇(在位585―587)のことです。

在位年数3年という短い即位なのですが、なんといっても聖徳太子の父君が、この地を訪れたというのも気になるところです。

 

夏祭りには、隣村の刈田郡宮村より伝えられたという、大河原町の堤集落に伝わる神楽が奉納されます。

大高山神社は、柴田郡の大社として、地域の人々の崇敬を集めて来た神社でした。

大高山神社(柴田郡大河原町)

大高山神社の本殿・拝殿

日本武尊の時代には、平村の台の山にあり、火災に遭い、二度ほど遷座しているようです。

旧社地の周囲は畑地になっていますが、跡地として祭られています。

大高山神社跡地

丘陵の背後に蔵王連峰を仰ぎます。

南東北の要衝地に前方後円墳の愛宕山古墳

このように、日本武尊が拠点を置いた柴田郡と、その南に接する刈田郡と伊久郡には、日本武尊を祭神とする神社の分布が顕著です。

柴田・刈田・伊久の地名に関連する記事はこちら

 

村田町は、南北を貫通する奥州街道と、西の日本海方面へ向かう羽州街道をつなぐ街道沿いにあり、四方に道が伸びる要衝です。

古道が残り、古くから栄えていたことがわかります。

 

さらに古墳も多く残されています。

4世紀後~5世紀ごろの築造とされる愛宕山古墳(村田町関場愛宕山)は、全長90メートルあり、宮城県で3番目の規模をもつ前方後円墳です。

1位は名取市の雷神山古墳(168m)、

2位は仙台市の遠見塚古墳(110m)です。

*宮城県の古墳の規模ランキング*
 
1位:名取市の雷神山古墳(168m)
2位:仙台市の遠見塚古墳(110m)
3位:村田町の愛宕山古墳(90m)

愛宕山古墳は、埴輪や葺石があり、レーダー探査で竪穴式石室が確認されています。

古墳の前に神明社が祭られています。

参道

神明社 本殿

また千塚古墳(村田町沼辺千塚)は、全長八十五メートルのバチ形前方後円墳で、それに先立つ前期古墳とされます。

これらの古墳は、日本武尊の遠征との関連性が考えられます。

前九年の役では白鳥神社で源頼義・義家が戦勝祈願

柴田郡村田町は日本武尊が陣を張ったと伝えられる地の一つです。

本松川が荒川に合流する村田町村田の白鳥神社は、古くは大宮白鳥大明神といわれていて日本武尊を祭ります。

拝殿

日本武尊の没後の景行天皇の時代に、天皇が皇子を偲んで、息子が布陣した故地に、大宮白鳥神社を建立したのが起源とされています。

 

境内に「日本武尊御陣営跡地」の石碑があります。

この地は南東北の拠点集落の一つなのでしょう。

村田町周辺は、前九年の役の際にも戦場地となっています。

源頼義・義家親子が、白鳥神社に陣太刀一式を寄進して戦勝祈願しました。

朝廷がこの地方に二つの明神大社をおいて手厚く幣帛を捧げた理由も見えてきます。

また大古墳の造営も、反乱勢力を封じ込めることを意図したものなのでしょう。

 

白鳥神社の境内の「奥州の蛇藤」という伝説にもなっている藤の木は、大蛇のごとく境内の四方に延々と枝を伸ばしています。

ここを訪れたのは藤の花の季節でなく、白鳥の飛来に合わせて師走でした。

参道をおおう蛇藤

やはり藤の花の咲く季節に訪れたいです。平和な時代ならではの楽しみです。

 

八幡太郎義家が、安倍氏の前に苦戦を強いられ、敵軍に包囲されて危機に陥ったその時に、白鳥神社の藤の木が、二匹の大蛇となり敵を阻み、追い散らしたそうです。

日本武尊の故事に因んでこの地での懸命の奮戦に勝利したものなのでしょう。

 

時代は下り、文治5年(1189)の奥州合戦の際に、源頼朝も太刀を寄進して戦勝祈願したそうです。

日本武尊の武運にあやかるべく、この神社を訪れた武将たちの心中が偲ばれます。

 

境内の大銀杏の巨木は、あいにく震災により折れてしまったのですが、その後も次々と枝を出していることから、各調査機関の対象にしているそうです。

 

折れてしまった大銀杏の生命力にあやかり、木片から「大銀杏木霊守」が作られています。

また根元に多くのコブが作られて「よろこぶ」と縁起物になっているケヤキの巨木もそそりたっています。

大和朝廷の東北経営の歴史を考えさせる、由緒ある古社でした。

 

東北地方の大動脈は、塩釜港付近を拠点として、南は阿武隈川の水上交通を使い、一方で北上川の水上交通で北上する道筋なのでしょう。

北上川は明治時代の治水事業が行われるまで、仙台湾に注いでいました。

まず塩釜港と阿武隈川の河口を掌握して確固たるものにしたいという朝廷側と、それをさせまいと抵抗する人々の衝突であったのでしょうか。

 

長い年月におよんで繰り返された、攻防の歴史に思いを馳せる神社や古墳群があります。

日本武尊の軍は、南東北を制して、北上川流域へも進軍していました。

それはまた別の機会にしますね。

 

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