天皇制を確固たるものにした神武天皇の皇子 神八井耳命【2】のつづきです。
『先代旧事本紀』「天孫本紀」の尾張氏の系譜から
古代史学者の安本先生が、新宿と横浜の朝日カルチャーセンターで、上代古典の文献考証を続けて40年余りになります。
『古事記』『日本書紀』などの日本の古典の地道な文献考証の講座は、1か月に一度開催される、邪馬台国の会よりも参加人数は少数ですが、毎週の講座に通っている方々は40年、30年続いていらっしゃる方もいます。
私などは、都合によって出たり入ったりしてしまいましたが……(大汗)
それで、参加されているみなさんのプライベートなことは深くは存じませんでした。
あるとき、『先代旧事本紀』「天孫本紀」の講義の時のことです。
尾張氏13世の系譜で、第15代応神天皇のお妃の系譜に、尾張氏の尾綱真若刀俾命(おづなまわかとべのみこと)・金田屋野姫(かなだやのひめのみこと)が出てきました。
2人の尾張氏の女性が、第12代景行天皇の皇子の五百木入彦命(いおきいりひこのみこと)とその御子に嫁いで王女が生まれます。
その女性たちが応神天皇に嫁いで、なんと13人の皇子皇女を生む!というのです(スゴッ!)
この系譜の始まりの二人の女性について、
「尾張氏の女性の母は、神八井耳命の子孫で、一族は島田の臣(おみ)になっています。私はその子孫です」
と初めておっしゃったご婦人がいらっしゃいました。
いつもまったく控えめな女性で、そのような話しをなされたことがないご婦人でしたので、一同、とても驚きました!!
そのご婦人は、大平武子氏、旧姓島田武子氏といいます。
それから初めて、いろいろいきさつをうかがって、すべて納得できたのです(拍手)
神八井耳命の後裔の島田の臣(おみ)
確かに「玉姫」という神八井耳命の子孫の一族の女性を祭る、田県(たがた)神社(愛知県小牧市田県)がありました。
日本武尊に従軍した建稲種命(たけいなだねのみこと)に嫁いで、生まれた娘から、応神天皇の皇子皇女につながる系譜が輩出します。
ムリなくスッと入っていける説明でした。
こうしてみると、新たに創始された王朝では?などという説さえある神功皇后の皇子の応神天皇も、やはり前の時代の天皇家としっかりつながっていることが確認できます。
神功皇后は、第9代開化天皇の子孫ですし。
そして、そのご婦人の大平さん(旧姓島田さん)は次のことを話してくださいました。
島田氏は、神八井耳命の後裔氏族として、畿内と地方に別れて系譜を伝えてきたこと。
太安万侶の太氏が、平安時代のはじまりに失脚した後、島田氏が一族の筆頭として、国政に携わったこと。
六国史の『日本後紀』を編纂したこと。
菅原道真の夫人は島田宜来子(のぶきこ)であること……
武田信玄公の正室になった三条夫人とともに甲斐に下向したものの、武田氏滅亡となってしまったこと。
その後は信濃の真田公を頼って、藩主の家庭教師になり、長野へ居住してきたこと。
そして、大学で東京へ来て、そのままこちらへ住んでいること。……
まるで、稗田阿礼の口承伝承をうかがっているようでした。
確かに長野市には神八井耳命の後裔氏族の「島田の臣(おみ)」に因む「小島田町」の地名も残っています。
周辺には一族にみられる、小長谷(おはつせ)の造(みやつこ)の塩崎長谷、小子部(ちいさこべ)に関係ありそうな小県(ちいさがた)、の地名もラップします。
大平さんが80才を越えてもかくしゃくとして、威厳と品格を保持しているのは、DNAのなせるわざなのでしょう。
教育関係のお仕事に従事されて、その後定年されてからは、先祖ゆかりの古代史を勉強しようと、多くの講座に通い、講演会を聴いて回ったそうです。
……ですが、どこを巡っても、神武天皇はいない、まして神八井耳命など存在するはずもないという講座講演会ばかりだったそうです(大泣)
つづく