こんにちは!yurinです。
こちらの記事では、森将軍塚古墳の被葬者は信濃の国造だとお伝えしました。
少し前の参考文献や地元の伝承からは、信濃の国造の健磐龍命(たけいおたつのみこと)と言われてきましたが、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
ポイントになるのが「本州中央部の諏訪大社」と「九州中央部の阿蘇神社」です。
目次
諏訪大社と阿蘇神社に神八井耳命の子孫
『先代旧事本紀』には、次のような記事があります。
阿蘇の国造(くにのみやつこ)
瑞籬(みずがき)の朝(みかど)の御代に、火の国造と同じ先祖の神八井耳命の孫、速瓶玉命(はやみかたまのみこと)を国造にさだめられた
神八井耳命の孫が阿蘇の国造になっています。
これは『古事記』の神武天皇の段のラストにある皇子の系譜の記事と符合して、補い合っているものです。
神八井耳命(かむやいみみのみこと)は、意富臣(おおのおみ=多臣、太臣)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部連(さかあいべのむらじ)、火君(ひのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)、筑紫三家連(つくしみやけのむらじ)、雀部臣(さざきべのおみ)、小長谷造(おはつせのみやつこ)、都祁直(つげのあたい)、伊余国造(いよのくにのみやつこ)、科野国造(しなののくにのみやつこ)、道奥(にちのく)の石城国造(いわきのくにのみやつこ)、常道(ひたち)の仲国造(なかのくにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきのあたい)、尾張(おわり)の丹羽臣(にわのおみ)、島田臣(しまだのおみ)らの祖なり
神八井耳命は、火君、阿蘇君、科野国造の祖と言っています。
以上の中で、国造に関する記事は『先代旧事本紀』と一致し、さらに『風土記』において確認できる人名もあります。
さらに各地の神社や古墳の伝承でも確認できるものがほとんどです。
九州の肥後国一の宮の阿蘇神社(熊本県阿蘇市一の宮町)は、自然の恩恵と災害の平穏を祈念する阿蘇山をお祭りし、九州地方の信仰を集め、求心力となってきた神社です。
祭神は、健磐龍命(たけいおたつのみこと、武五百建命)とその一族です。
阿蘇地方の開拓統治をした子孫が神職となりお祭りしたとされます。
神八井耳命の子孫は古代聖域の諏訪から阿蘇へ?
神八井耳命のご子孫、大平氏にご教示いただいた「異本阿蘇氏系図」(『田中卓著作集2』)は、さらに神八井耳命の後裔一族の情報が詳細に確認できます。
神八井耳命の5世の子孫が、武五百建命(たけいおたつのみこと=健磐龍命)で、
磯城瑞籬大宮の朝(みかど)、科野(信濃)の国造にお定めになられた。肥後国(熊本県)阿蘇神社におられる。
とあります。
その武五百建命(たけいおたつのみこと)の子が、速甕玉命(はやみかたまのみこと=速瓶玉命)と建稲背命(たけいなせのみこと)です。
つまり九州中央部の熊本県の阿蘇神社と、本州中央部の長野県の諏訪大社をお祭りするのは、神八井耳命の子孫です。
どちらも古代の聖域です。
武五百建命(たけいおたつのみこと)は、諏訪大社の神職、下社の大祝(おおほうり)の家の先祖とされます。
諏訪大社下社
一方の九州阿蘇神社では、神八井耳命の子孫は阿蘇神社の神職になり、武五百建命(たけいおたつのみこと)は、祭神としてもお祭りされてきたのです。
ところがなんと!阿蘇神社の伝承では、健磐龍命(たけいおたつのみこと)は、信濃からはるばる九州へ下向した、とされます!
かなりダイナミックな移動ですが、伝承では、信濃から阿蘇へと移動しているのです。
御子の速瓶玉命が、健磐龍命の神霊を抱いて下向したのか、本人が下向したのものか、考えてしまいました……?
ですが大平氏、そして福岡の河村先生の調査でも「健磐龍命が下向」ということですので、そのような大きな移動が行われたという説に、傾いています^^
神武天皇皇子の子孫の血筋と、実力を兼ね備えた人物として、九州方面の基盤を固めることを託されたものと考えます。
『異本阿蘇氏系図』では、速甕玉命について
母、会知早雄命(えちはやお)の女、阿蘇比咩命。瑞籬大宮の朝、阿蘇国造に定められた。肥後国、阿蘇郡手野に鎮座する国造神社に祭られる。
とあります。
「会知早雄(えちはやお)」を、長野方面では「出早雄命(いずはやおのみこと)」として知られ、建御名方命(たけみなかたのみこと)の御子とされ、祭られている神社もあります。
長野県上田市古安曽には安曽(あそ)神社があり、大国主命・建御名方命・八坂刀売命をお祭りします。
上田市もまた信濃の国造ゆかりの古社が目立ちます。
長野と九州の「あそ」の地名は、神八井耳命の一族が関係しているようです。
諏訪大社・阿蘇神社・阿蘇国造神社のいずれも「延喜式」神名帳で、国郡名・神社・祭神を確認できます。
『古事記』『先代旧事本紀』『風土記』『異本阿蘇氏系図』『延喜式』など、いずれの記事とも符合して補足し合い、確認できる神八井耳命の子孫の系譜は驚くべきことです!
ひとたび『古事記』『日本書紀』という日本の古典を軽くみて、神武天皇の実在を否定してしまうと、次々と現れる神八井耳命の子孫の説明に四苦八苦してしまうでしょう(苦笑)
森将軍塚古墳を中心に神八井耳命の一族を祭る
以上のことから総合すると、森将軍塚古墳の被葬者は、武五百建命でなく、あるいはその子の建稲背命(たけいなせのみこと)の墓とみられます。
『古事記』を編纂した太安万侶は、神八井耳命の後裔の太(多)氏の一族です。
この一族は、古代には文武両道、天皇や皇族将軍の遠征に従軍し、獅子奮迅の働きでした。
一方で宮廷の雅楽も継承するなど、深い教養と学識を継承した一族でした。
また初期大和政権時代は、祭政一致の政治形態で、政治権力者には司祭者的面影が多くみられる逸話が残るのです。
神八井耳命は、弟の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと」に皇位を譲り、「忌人(いわいびと)」として、天皇家を支えるというエピソードが残されています。
後の時代に、天皇家が政治権を失っていく様子は地方も同様で、神八井耳命の後裔氏族も、司祭者としての側面を残し、地域の求心力となって大きな役割を果たしてきたのでした。
まさしく神武天皇以来の天皇制を支えて確固たるものにしたのが、神八井耳命の子孫といえるでしょう。
その一族が森将軍塚古墳を中心とした古墳群に祭られています。
妻女山の会津比売神社
千曲市のすぐ隣の長野市松代町には、会津比売(あいづひめ)神社があり、初代科野(しなの、信濃)の国造の武五百建命の妻、会津比売(あいづひめ)を祭ります。
戦国時代の川中島の戦いで、上杉謙信が本陣をおいたことで知られる妻女山(さいじょさん)です。
実は妻女山の「妻女」は、会津比売に因んだものでした!
現在は妻女山のすぐ脇を上信越自動車道が通り、神社は高速道路のすぐ下になっています。
新春の雪晴れのひとときに、参拝しました。
神社の石碑には次のような文が刻まれています。
祭神会津比売の命は信濃の国の初代国造建五百建命の妃なり。東面の妻女山の地名はこの妻女より出でしものなり。然して命は信濃一の宮諏訪明神の御孫なり。
(略)現在は神社の上、斎上山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形出陵が命の墓なり。
(略)有明山頂に至る、将軍塚と称する古墳ありて、これを中心として多数の古墳あり。これらは皆建五百建の命に縁りあるものなり。
これを初代の国造たる首長の豪族の墓であると、断ずる考古学者も多数あり。貞観八年清和天皇の御代(西暦八五九年)、会津比売命に『従四位下』を贈らる。
かくて、此の会津比売神命の御神格の尊きを、深く奉る次第なり。
又、長男の命は二代目の信濃の首長となり、父命に次いで善政をされしものと云う。弟の命は能登の国造となりしという。
平安時代の貞観年間(859~877)に、金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)は埴科郡の大領(郡司)でした。
それで朝廷から官位が授けられたとみられます。
金刺氏は、神八井耳命の子孫で、諏訪大社下社の大祝(おおほうり)の神職の家柄でもあるのです。
一方で、武五百建命は、長野県よりも熊本県の阿蘇神社で、祭神として祭られています。
実際に下向したのでしょうか。それとも御子たちが、九州へ赴いて、武五百建命を祭ったのでしょうか。
神武天皇の皇子「神八井耳命」のご子孫、大平氏のお話しからは、実際に九州へ赴いたと伝えられるそうです。
福岡の河村先生の調査でも、武五百建命は阿蘇へ赴いた、と伝えられているとのことです。
なんとも初期大和政権の人々の動きはダイナミックです。
よく考えてみれば、奈良時代にも大伴旅人・家持なども、九州へ北陸へと派遣されています。
そうした伝統は、古代からあって、大和朝廷を築いてきたのでしょう。
春の信濃の里に泳ぐ鯉のぼり
北部九州の筑紫の勢力に対しては、その南方に『古事記』『日本書紀』では「熊襲(くまそ)」、『魏志倭人伝』では「狗奴(くな)国」ともいわれ、頑強に抵抗していた人々がありました。
一方で、信濃の国には、高天の原勢力に最後まで抵抗した、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子の建御名方命(たけみなかたのみこと)が鎮まります。
その建御名方の孫が会津比売(あいずひめ)で、武五百建命の妻になったのでした!
こうして神武天皇と媛踏鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)と同じく、地方でも天皇家と出雲勢力が和解して婚姻関係で結ばれたのは、実におめでたいことです!
神八井耳命のご子孫は、天皇家と建御名方の子孫の血筋を継承したことで、日本列島を平和的に統治することを待望されたのでした。
日本列島各地へ派遣され、各地域の天つ神国つ神をお祭りして、守護神として鎮まる神八井耳命の子孫たち。
彼らによって、日本という国の形は築かれ確固たるものにされたようです。
その古代の人々のなんともダイナミックな人生に思いを馳せる、科野の里の春は優しく、子供の健やかな成長を願う鯉のぼりが、さわやかな春風にはためいていました。