本能寺の変直後の光秀の手紙発見!「歴史は人が動かす」

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こんにちは、yurinです。

台風の接近とともに、日本周辺の物騒な雲行きの週末でしたが、
先週の始めには、朝のテレビから歴史のニュースが流れて、
ほほう!と聞き耳をたてたのでした。

戦国時代の武将、明智光秀が、本能寺の変の後に、
反信長勢力の豪族に送った書状の原本を発見したという、
三重大の藤田達夫教授(日本史学)らによる発表でした。

それは、信長に京都から追われていた室町幕府の第15代将軍義昭を、
再度京都に迎え入れようと、協力を求める趣旨の書状です。

 

つまり、

「本能寺の変の目的は、幕府再興であったことを裏付けるもの」(藤田教授)

との見解です。

 

本能寺の変は、1182年6月2日早朝、信長の重臣であった光秀が、謀反を起こして、
手薄な京都の本能寺の信長を攻めて、二条城にいた嫡男の信忠ともども自害に追い込んだのでした。

 

まさに千載一隅の機会を逃さずに、光秀は目的を果たしたものの、
中国地方から予想を超えるスピードで帰還したのが羽柴秀吉

やはり戦国時代とはいえ、「主君の仇討(あだうち)」という
大義ある秀吉に味方するのが大勢でした。

 

本能寺の変からわずか10日ほどの6月13日、
「天王山(てんのうざん)」の言葉もあるほどの大決戦「山﨑の戦い」に敗れて、
近江坂本に戻る途中にあえなく土民に襲われて、光秀はあっけなく果てたのでした………

それぞれの立場での思い

前回の古代史カフェ勉強会では
「本能寺の変か、乙巳の変かというほどの日本歴史上の大事件」と、
気合いを入れて日本書紀』の蘇我入鹿誅殺の場面を皆で読み込みました。

時の権力者も、思いもよらず人の手によって生命を絶たれてしまうのは、
織田信長も同じです。

そして歴史は大きく動きました。

 

その主君への謀反、という行動に及ぶ一人の明智光秀という武将の心中を察して、
いろいろな説があり、終着点がないのは、これまた邪馬台国論争と同じ(苦笑)

 

さらに信長の思い、秀吉の思い、織田軍に攻められ滅ぼされた一族の思い……
それぞれの立場を考えると、本能寺の変にまつわる自分の思いさえ、
一つにまとめ尽くせないです。

 

私は、上杉謙信ファンで上杉家安泰を願います。

謙信の死後、ようやく家督を継いだものの、織田勢に押されてじり貧の上杉景勝でしたから、
本能寺の変のおかげで、助かった
、と思います。

信長軍は、3か月前に武田家を滅ぼし、武田家が信仰した恵林寺や諏訪大社を焼き払います。

織田軍が焼却した、神社仏閣はそれだけではないですが、
その日本人離れした新世界感こそが、再びの日本統一になったんですね……(大汗)

 

破竹の勢いで進軍する織田軍。

森長可(もりながよし)軍5000人は川中島を越えて、春日山城のすぐ近くへ到達し、
日本海側から進軍する柴田軍を待って総攻撃の臨戦態勢。

その日本海側では、上杉家の西の最後の砦となっていた富山の魚津城が6月3日に陥落。

もはや春日山城の織田軍包囲は目前……

しかしなんと、ここで本能寺の変を知った織田軍は、全て兵を引いて、
四方に散っていってくれたのです!

光秀は、上杉家を滅ぼさないために、本能寺へ向けて挙兵してくれたのじゃないかしら?と思うほどです。

歴史は人が作る

明智光秀謀反の動機は、怨恨説、野望説という個人的なものから、
幕府再興説、黒幕説など多岐に及びます。

今回発見された書状には

将軍(足利義昭)のご入洛のことについては、命に従い、協力することが大切です

の内容があり、義昭や光秀への援軍を申し出た土橋重治(和歌山県の豪族)に対しての、感謝もつづられています。

かつて信長以前に義昭に仕えていた光秀であり、古きを重んじるその真面目な人物像からは、
なるほどもっともなことと思う書面でした。

 

歴史資料の発見は、古代史でもそうですが、それが発見されたからといって、
すぐに革命的に黒が白にかわったりするものではないようです。

今回も、即座にこんな反論が……(苦笑)

「これは山﨑の合戦というひっぱくした状況の中で、
しかも圧倒的に光秀不利と認識された時点で書かれたもの。

つまり、義昭と打合せがあったという証拠はない。
状況不利になり、
天下取りという野望を隠して、
将軍家再興という大義を持ち出したものであろう」

……。

このように歴史資料の新発見には、必ずすぐに、何かしらの反論がでて、
またまた永遠の討論は続けられるかのようにも見えます(大汗)

 

しかしおそらくは、こうした資料の発見と解釈によって、
人々の認識は少しずつ変化していくのではないでしょうか。

 

古典の資料的価値についても、考古学資料で何が出ても一気に世の中の流れが変わらなくても、
少しずつ人々の古典への認識は変化していくものと期待しています。

歴史は人が動かす。

本能寺の変でも、乙巳の変でも、明智光秀や中大兄皇子という、
“個人”が日本の歴史を動かしたのです。

そして織田信長こそ、桶狭間への奇襲で、人生の扉を開いたのです。

奇襲に始まって、奇襲で終焉を迎えるドラマチックな人生は、
実に多くのものを人々に投げかけてくれます。

 

桶狭間に向かう26才の若き日の信長は、熱田神宮に軍勢を集結して、
決戦にいどみました。

神も仏も恐れない信長ですが、さすがに10倍以上の今川勢に侵略されて、
草薙(くさなぎ)の剣の神威にすがったのでしょうか。

桶狭間の戦いの勝利のお礼に、熱田神宮に寄進した土塀が残っています。

信長寄進の土塀(左)と熱田神宮本殿

信長塀

信長が桶狭間の戦いで勝利した寄進の土塀

みるほどに頑丈で見事な土塀です。

信長の熱田の神さまへの感謝の思いを知ります。

熱田神宮 楠(名古屋市)

『古事記』『日本書紀』に記された、
神武天皇、大彦命、日本武尊、景行天皇、神功皇后………

日本の歴史を動かした人々

彼ら一人一人にそれぞれの思いがあったと思います。

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