yurinです。
こちらのブログのつづきです。
弥彦山をお守りするようにと、天香山命(あめのかごやまのみこ
神武天皇は、近江の国の要所地もお祭りしました。地元の人たちが
目次
天香山命はふるさと筑紫から越(こし)へ
あの感動の天香久山の上溝桜を、なんと!弥彦山の山頂でも目にすることができたのでした。
どこまでも続く豊かな日本海と、豊かな実りをもたらす越後平野の眺望が絶景です。
日本の自然の恵みと美しさを大切に守るように……との神々のお声が聞こえてくるようでした。
日本列島の要衝地の守護神となった、天香山命(天香語山命、あめのかごやまのみこと)の人生(神生)にも思いを馳せます。
おそらくは、越(こし)の国からは、日本海で続いている筑紫の国で生まれ育ったとおもわれます。
『古事記』『日本書紀』では「高倉下(たかくらじ)」のお名前ででてきますが、筑紫の国の「鞍手(くらて)郡」の「くらし」に因むお名前のようです。
天照大神(あまてらすおおみかみ)のひ孫で、母方は宗像三女神と関わります。
宗像三女神は、越(こし)の奴奈川姫(ぬなかわひめ)とゆかりが深く、二柱の女神さまがヒスイをご神体にしておられるのです。
そのように越(こし)にゆかりの深い天香山命が、越(こし)の鎮守として、弥彦山にお祭りされるのは、とてもふさわしく自然のことと思われます。
この後の時代には、北方からオホーツク人が、佐渡島まで南下
天香語山命(あめのかごやまのみこと)が、日本列島の要所地の守
天香山命(あめのかごやまのみこと)の由来は?
天香山命(あめのかごやまのみこと)のお名前は、丹後の国の一の宮籠(この)神社にある天香語山(あめのかごやま)で祭司をとりおこなったことに因む名称のようです。
ですが、大和の天香久山神社と彌彦神社のハハカの木を見ると、そ
『万葉集』で歌われるのは「梅の花」が目立ちます。
平安時代になってようやくソメイヨシノの桜が、歌われるようになります。
各地の神社を巡りながら、日本人の自然への美意識にも変遷があった、と感じました。
古代には、この上溝桜こそ古代の人々が心惹かれた花であったように思われるのです。
神社のご神木として大切に保存されてきた状況からも、その心が伺われます。
花の咲き方としては、栗の花に似ています。
縄文人の美意識であったでしょうか^^?
馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社の猪神(いのししがみ)
今年は「猪(い)年」ということで、もう一つお伝えしたいことがあります。
このイノシシです!見事に立派でしょう^^!
滋賀県蒲生郡日野町の馬見岡綿向(うまみおかわたむき)神社の猪神(いのししがみ)です。
古代は狩猟の地ともされ、その神霊をお祭りしたのでした!
滋賀県の東方にそびえる鈴鹿山脈の南端、霊峰の綿向山(わたむきやま、1110m)の山頂に祭られている社の里宮です。
蒲生郡の惣社で、日野町の産土神(ぶすながみ)として、当地の信仰の中心になってきました。
天穂日命(あめのほひのみこと)・天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)・武三熊大人命(たけみくまうしのみこと)をお祭りします。
神武天皇の時代に、出雲国の開拓祖神を迎えて祭ったのが創祀とされ、第29代欽明天皇の時代に祠(ほこら)を建てたとされます。
さすがに神武天皇は、要衝地にはふさわしい神々をお祭りします。
この神社のある下流域に開けた平野に、例の銅鐸や鏡に由緒ある地があります。
「馬見(うまみ)」の地名は、この地にほかに見当たらないことから、神武天皇の東遷により筑紫から移住した人々によってもたらされたのではないでしょうか?
遠賀川と筑後川源流の「馬見(うまみ)山」への深い思いが感じられます。
これについては以前ブログで書きましたで、合わせてお読みいただければうれしいです。
馬見岡綿向神社は、城下町を築いた蒲生家が氏神として庇護し、江戸時代には巨万の富!を築いた日野商人たちの寄進によって、出世開運の神として崇敬されたのでした。
立派な社殿が建立され、回廊には金の灯籠が並んでいます。
明るくのびやかな境内にたたずみ、見事な猪神(いのししがみ)を拝むと、本当に運が開かれていきそうな気がしてきました^^
どうかみなさまも、新たな年が明るく開かれて、良い年となりますように!