こんにちは!yurinです。
自然と歴史の旅をつづけていると、感動的な美しい風景の中に、神社が祭られている光景にと出会うことが、しばしばあります。
古代人も現代人と同じ感性があったと思うのです。
美しい湿原の中に旧御射山(もとみさやま)神社
諏訪大社上社の御射山(みさやま)神社は八ヶ岳山麓の富士見町にあります。
一方、諏訪大社下社の御射山神社は、もとは八ヶ岳から続く霧ケ峰高原の中にありました(現在は、下諏訪に遷座)。
標高1600メートルの高層湿原として知られる八島が原湿原。
夏場は高山植物の咲き乱れる湿原として、絶好のハイキングコースになっています。
その美しい湿原の中に、旧御射山(もとみさやま)神社があります。
「旧(もと)」というのは、明治時代に山の下の方へ遷座したからです。
ですが遷座した後も、湿原の中に祭られた神秘的神域は、変わることなくパワースポット感が漂い、多くのハイカーたちが足をとめ、拝観しています。
10月中旬、もはや高原は晩秋の装いです。
草花は咲き終わり、出穂したススキが秋風にたなびく季節に訪れました。
「黒曜石体験ミュージアム」から、大門(だいもん)峠(1441m)を越えるところで、ヴィーナスラインに入ります。
澄んだ秋の大気に、くっきりと山々を見渡します。
くっきりとそびえたつ秀麗な山容の蓼科山(2531m)が、実に神々しいです(左端)。
車を止めて多くの人々が記念撮影をしていました。
黒曜石を求めた人々の痕跡
八ヶ岳山塊の東西あるいは南北の峠を越えて、いくつもの峠があります。
古い長野県地図をみると、武石峠・扉峠、和田峠、大門峠、スズラン峠、大河原峠、雨池峠、麦草峠、夏沢峠……八ヶ岳山塊には、驚くほどたくさんの「峠」があります。
麦草(むぎくさ)峠なんて、ステキな名前ですよね。
早春に麦のように芽吹く笹の一種が、高原を覆うことからの名称だそうです。
これほどたくさんの峠があるのは、はるか太古から人々が黒曜石を求めて往来した痕跡ではないでしょうか。
時代は下り、日本武尊(やまとたけるのみこと)も、八ヶ岳連峰の北部、蓼科山の肩を通る、大河原峠(2093m)を越えたとされます。
八ヶ岳連峰
古代の人々は、谷間の道よりも、洪水被害の少ない、尾根筋の道を好んだとされます。
こうした峠道は、今も国道が通じているところは少なく、ハイカーたちのハイキングコースや登山コースとして残っているようです。
この八ヶ岳山塊の中でも、黒曜石産出地として利用されたのは、大きく二か所に分かれます。
西方の鷲ヶ峰(わしがみね、1798m)周辺と、蓼科山の東南の麦草峠(むぎくさとうげ、2120m)に近い冷山(つめたやま)の黒曜石です。
八島が原湿原を歩くと、左右に鷲ヶ峰と蓼科山の霊峰をずっと仰ぎます。
鷲ヶ峰
太古に黒曜石を採掘、最終に訪れた人々もまた、この八ヶ岳の二つの山を仰いだのでしょう。
この湿原がただならぬ場所に思えてきてしまうのです。
登山で危うく遭難・・・?
学生時代、友人二人で、蓼科山の山頂に登ったことがありました。
霧ケ峰や白樺高原を散策しているうちに、新品の登山靴を試したくもあったし、何より簡単に昇れるような気がしたもので、早速に足を運びました。
確かに、登るのにそれほど困難ではありませんでした。
……ところが、魔物は下山路にあったのです。
登山道を下っているつもりが、いつしか沢に入り込んでしまったのでした(大汗)
沢を下ると、次々と崖が現れます。
なんとかクリアして下り続けたのですが、ついに、大きな断崖!が現れてしまいました(大汗)
「これほどの断崖はさすがに降りれない、終わった……」と、思ったその時、周囲を見回すと、なんと!すぐ横に、舗装道路があったのでした!
助かった!あの時の恐怖と、喜びは今もなお昨日のことのように蘇ってきます。
ずいぶん、無謀なことをしてしまいました(大汗)
人生は一瞬の差で、天国へも地獄へも落ちる……人の運命は定まっているのかもしれない、ということも考えたりします。
こういうことは、誰にもあるのでしょうか?
この後、旅先で、八甲田山に登ろう、とか大雪山に登ろう、など誘いの手を伸ばす友人がいたのですが、少なくも気軽に山に登るのは、やめたのでした。
八ヶ岳の蓼科山は、秀麗な富士山型をして、四方から臨まれます。
……この山を見るたびに、若い時の苦い思い出が蘇ります。
そして後年は、日本武尊の足跡を辿る探究を続けて、蓼科山の肩にあたる大河原峠を越えたという日本武尊を知りました。
それからは蓼科山を見るたびに日本武尊も思います^^
数々の登山を成し遂げた日本武尊が、伊吹山(1377m)を仰いで、簡単に昇れるように思ったのも、わかるような気がしてしまいます。
伊吹山も麓から見ると、山上が広くなだらかで、容易に登れそうな気がします。
ですが、森林がなくなった山上の長い経路は、ひとたび悪天候に遭うと逃げ場がありません(汗)
日本武尊の伊吹山での受難については、さまざま説が飛び交いますから、私も自分の経験を織り交ぜて、あれこれ考えを巡らせてしまうのでした(苦笑)
はるばる遠方から黒曜石を採掘するために訪れた縄文人たちも、八ヶ岳の端から蓼科山を仰いで、目標点を定めたのでしょう。
蓼科山の東西に黒曜石の産地があるのですから。
晩秋の旧御射山(もとみさやま)神社
八島ヶ原湿原は標高1600mの高層湿原ですが、すぐ横をヴィーナスラインが走っているので、手軽にハイキングが楽しめます。
晩秋の休日の午後、次々と家族連れ、夫婦、カップルが湿原の散策を楽しんでいます。
八島が原湿原の八島小屋の方から湿原に入ると、その湿原の奥まったところに旧御射山(もとみさやま)神社がありました。
絶え間なく草原を流れる水音がします。
その小川に注ぐ、さらに小さな流れがあって、その始まりの湧水池のようなところに、モミの木が数本たっています。
磐座(いわくら)などもあります。
そこが旧御射山(もろみさやま)神社です。
この高原を訪れる人は、何かと足をとめて参拝しています。
古代の人々も、麓の諏訪湖からここまで登ってきて、参拝したのです。
もともとは黒曜石を採掘に来た人々も、ここで足を止めて、清流でのどを潤し、帰路の無事を祈ったのでしょうか。
鎌倉時代の諏訪大社下社「御射山祭」では、円形の段上なったこの付近を桟敷席のようにして、武芸を披露するなどして、大いに賑わったとされます。
前の御射山社のブログで書いたように、下社の大祝(おおほうり)の金刺盛澄(かなさしもりずみ)が、倶利伽羅(くりから)峠の戦いの後、この祭りのためにわざわざ引き返したという逸話です。
こうした場所を「神域」として祭った人々の営みが、とても懐かしく慕わしく思えてきます。
一面のススキの原に、午後の陽ざしが沈みゆく時間でした。
晩秋から初冬に移り行く高原の季節の名残りを惜しんで、立ち去りがたい光景でした。