蝦夷(えみし)が大和朝廷に頼る?!『日本書紀』と遺伝子の一致

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こんにちは!yurinです。

7月に開催した縄文勉強会では、遺伝子から縄文人について触れました。

 

遺伝子学の解明によって、『日本書紀』の記事と符合することも次々と出てきます。

その一つがオホーツク人の南下です。

阿倍比羅夫の遠征と符合するオホーツク人の南下

第37代斉明天皇の4年(あるいは6年とも)、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が粛慎(みしはせ)を追討した記事があります。

『日本書紀』に粛慎(みしはせ)について次のように記されています。

三月に、阿倍臣(あべのおみ)を遣(つかわ)して、船師(ふねいくさ)二百艘(ふたももふな)を率(い)て、粛真(みしはせ)の国を伐(う)たしむ。

阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)を以(も)て、己(おの)が船に乗せて、大河の側(ほとり)に到る。

(3月、阿倍臣を派遣して、船団200隻を率い、粛慎(みしはせ)の国を討たせた。
安倍臣は陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)を自分の船に乗せて、大河(石狩川)のほとりまで来た。)

 

是(ここ)に、渡島(わたりのしま)の蝦夷一千余り、海の畔(ほとり)に屯聚(いわみ)て、河に向かいて営(いおり)す。

(すると雄島(おしま=雄島半島)の蝦夷が1,000人余り、海のほとりに群がり、河に面して屯営していた。)

 

営(いおり)の中の二人、進みて急(にわか)に叫びて曰(いわ)く、

「粛慎(みしはせ)の船師(ふねいくさ)多(さわ)に来たりて、我らを殺さむとするが故(ゆえ)に、願(こ)う、河を渡りて仕官(つか)えまつらむと欲(おも)う」という。

(営の中から二人が急いで出てきて、「粛真(みしはせ)の船団が多数押し寄せて、我らを殺そうとしています。どうか河を渡ってお仕えすることをお許しください」という)

数十年前に、古代史学者の安本先生の『日本書紀』のご講義で伺った時は、まだ「粛慎(みしはせ)」の実体は不明でした。

一致協力した大和朝廷と蝦夷たち

蝦夷(えみし)といえば、大和朝廷の政権機構に馴染まず、抵抗する人々の呼称、と思いがちですが、なんと!ここでは、

陸奥(みちのく)と雄島(おしま)の蝦夷=東北と北海道の蝦夷たち

が、北方からの「粛真(みしはせ)」とされる異民族の侵略を受けて、大和朝廷から派遣された阿倍比羅夫を頼ってきたのでした!

 

以前はこの「粛慎(みしはせ)」について、北方の異民族とされても、その実態はよくわからなかったのです。

蝦夷の実体も不明でした。

 

……ですが、遺伝子の解析が進み、北海道から沖縄まで縄文人が居住していたことが判明してきます。

そして「粛真(みしはせ)」は、ツングース系の少数民族で、かつてのオホーツク文化を担ったオホーツク人と言われた人々であることが濃厚になってきています。

 

現在のサハリンやアムール川下流域などに居住し、樺太から北海道へ渡ってきたのです。

海を生業の場とし、漁労や海獣狩猟によって生活した海洋民族と考えられています。

 

クマ祭りの風俗があります。

その後の消息が不明になるのですが、オホーツク人の一部が北海道在地の人々と混血し、アイヌ民族の形成に関わったことが判明しつつあるようです。

 

本州の縄文時代以後の北海道には、引き続き縄文人、アイヌ人、オホーツク人が共存していたとみられるのです。

その中のオホーツク人が勢力を増して、南下してきたのでした。

 

東北や北海道の「蝦夷」とは、実は「縄文人の中で、稲作を受容せずに(自然条件により困難で)、狩猟採集生活をそのまま続けていた人たち」といえるようです。

一度は弥生時代中期に青森まで北上した水田稲作でしたが、やはり温暖な地域に適合する当初の稲の品種では、寒冷地での栽培を続けるのは困難であったのです。

 

1万年の間、自然と共存して狩猟採集を続けた縄文人にも、寒冷化という自然条件に直面し、それぞれの道が分かれたのです。

……ですが、「異民族の侵入」という大難儀に際して、やはり縄文人として一緒に生きた同じDNAは呼び覚まされたのでした。

縄文人から分かれた道を再び一つに

蝦夷は大和朝廷を頼り、大和朝廷も蝦夷の願いを受け入れて、大船団を派遣して、異民族の侵入に、ともに対峙したのです!

『日本書紀』には次のようにつづきます。

安倍臣、船を遣(つかわ)して、両箇(ふたつ)の蝦夷を喚(め)し至らしめて、賊(あた)の隠所(かくれどころ)とその船数を問う。

(安倍臣は船を出し2人の蝦夷を召して、敵方の隠れ場所と船を尋ねた。)

 

安倍臣、数船(あまたのふね)を遣(つかわ)して喚(め)さしむ。来肯(もうきか)えずして……己(おの)が柵(き)に據(よ)りて戦う。

(安倍臣は多くの船を出して、粛真(みしはせ)を呼ばせたが、聞き入れることなく……(粛真は)自ら築いた柵(き)にたてこもって戦った。)

 

時に能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)、敵(あた)の為(ため)に殺されぬ。なお戦いて未(いま)だ倦(う)まざる間に、賊(あた)破れて己が妻子を殺す

(能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)は、敵のために殺された。戦いはさらに激しさを増すことなく、敵方は自分の妻子を殺して敗走した)

 

粛慎(みしはせ)は、北海道の縄文人の女性を妻にするほどの勢力となっていたようです。

大和朝廷側の船団には、能登方面などから日本海側の人々もはるばる参加していました。

 

中でも能登臣(のとのおみ)馬身龍(まむたつ)は、身を犠牲にして奮戦したのです。

大船団と屈強な兵力に敵方は恐れをなして、激戦となる前に去っていったのでした。

 

阿倍比羅夫は、第10代崇神天皇の時代、四道将軍で北陸道へ派遣された大彦命(おおひこのみこと)の子孫です。

先祖ともども勇武で名を馳せた人物でした。

 

斉明女帝はこの後、百済救援のために、北部九州へと遷都します。

日本列島の北へ南へと、この国を守るために尽くした大女帝です。

あらためて斉明女帝の偉大さを実感します。

卑弥呼に神功皇后、そして斉明天皇と、国難に際し、巫女的霊力に頼ることは、他の東アジアの国々には、決してみられない伝統です。

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