こんにちは!yurinです。
7月に開催した縄文勉強会のブログのつづきです。
このときは、遺伝子のほかに、日本語の源泉についてもお話しました。
目次
縄文人が形成する日本語の源泉
日本がまだユーラシア大陸と陸続きであった時代に、次々と西方からやってきた先祖たちでした。
一番浅い宗谷海峡が、最後に海に沈んで、日本列島は完全に島国となりました。
そして1万年という縄文時代に、日本列島内で交流し、通婚し、子孫を残し、東アジア独自の日本語や日本文化を形成してきたのです。
日本語は「孤立語」ともいわれ、そのルーツに定説がありません。
そうした状況ですが、
日本語を語順で考える
北方のアルタイ語系のツングース諸語圏(東シベリア・樺太・北部満州・沿海州など)との関連を指摘する説があります。
言語を「語順」と「語彙(ごい)」に分けて考え、「語順」の方に根幹とみなす見地からの説です。
つまり、動詞が最後にくる日本語は、主語+動詞の文法構造をもつ英語や中国語と全く異なります。
日本語〔SOV〕主語+目的語+動詞
英語や中国語〔SVO〕主語+動詞+目的語
古くは漢語、新しくは英語の単語は、次々と多量に流入しましたが、言葉の順番が変わることはなかったのです。
日本語を語彙で考える
一方、接頭語や語彙の観点から、オーストロシア諸語圏(マダガスカル・マラヤ・インドネシア・フィリピン・台湾・南太平洋・ニュージーランドなど)との共通性も説かれます。
単語だけとりだせば、英語や中国語や朝鮮語との類似は多く指摘できますが、基層となる文法上の構造からは、世界の広範囲に及んで日本語の系統が論じられるようになっています。
それもまた生物遺伝子学の進歩によって、人類のダイナミックな移動が判明するようになったことが大きいです。
日本語をオノパトペから考える
考古学者の小林達雄氏は、「オノパトペ」といわれる擬声語や擬態語が豊富なことを、日本語の特色として指摘しておられます(『縄文文化が日本人の未来を拓く』)。
確かに「風がそよそよ吹く」「小川がさらさら流れる」などの、「そよそよ」「さらさら」という単語に、四季の自然にじっと目を向け、耳を傾ける日本人の感性を感じますね^^
『万葉集』大伴家持に通じる四季の自然への感受性
日本語の形成についても、自然と共生した縄文人の姿が大きく係わったことが伺われます。
四季の自然観照に繊細な感受性を持って歌に残した『万葉集』の人々につながります。
わが宿の いささ群竹(むらたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
巻19 4291
(私の家のささやかな竹林に風が吹いて、さやさやと、なんともかすかな音に、耳をすます夕暮れです)
うらうらに 照れる春日にひばり上がり 情(こころ)悲しも ひとりし思えば
巻19 4292
(うらうらと、のどかになんのわだかまりもなく降り注いでいる春の陽ざしの中を、ひばりが舞い上がっていく。たった一人のもの悲しい思いから、ひばりとともに抜けだしたいものです)
どちらも『万葉集』編者の大伴家持が詠んだ歌です。
「さやさや」「うらうら」という自然観照の感受性の深さが伝わってきますね。
大伴家持の先祖は、古く神武天皇の東遷に随行し、文武両道によって、天皇家を補佐してきた名門です。
名門大伴家の家長としての責任を担いながら、藤原氏の台頭によって、思い悩むことも多かったのでしょう。
そのような家持(やかもち)の心の慰めは、身近な自然だったのです。
万葉人の鋭い感受性と日本語は、四季の自然と共生してきた縄文人の心から育まれてきたもののようです。
『古事記』の「天の安の河の誓約(うけい)」で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、さやかな玉の音をたてながら、大切な祭祀を執り行うことにも通じています。
これについては卑弥呼の先祖か?九州に初めて巫女が出現!で、「翡翠(ひすい)風鈴」のところでふれました。
このように縄文時代にまでさかのぼることで、日本人の源泉が見えてきます。
なんとも遠大な先祖の歴史に思いを馳せることになるのが縄文時代です。
柱はイルカの慰霊碑
東京国立博物館には、イルカの慰霊碑とみられる柱痕が展示されていました。
石川県能登町真脇遺跡の出土品です。
真脇遺跡では樹齢200年を越すクリの巨木の柱痕が出土しており
この環状の木柱列が、はたして何に使用されたのか?
諏訪大社の祭祀空間に建てられた、御柱(おんばしら)
幾度も同じ場所に建て替え、半分に割って円形に並べた環状の木柱列が建てられました。
巨木をわざわざ半割りにするのも、大変な労力です!
丸木船を製作する技術から、こうした巨木の祭祀にも発展したのでしょうか?
石川県金沢市のチカモリ遺跡の巨木も半割りです。
真脇地域では、昭和の始めまではまでイルカ漁が行われていました。イルカ漁は、漁に出れる集落の人々の総出の共同作業でした。
能登湾内の真脇の海辺に、何隻もの丸木舟を操りながら、
真脇博物館に展示される絵画や写真で見ることができました。
集落の人々たちが心を一つにして、
古代の縄文人もイルカ漁を行っていて、遺跡からは大量のイルカの骨、
三日月型の彫刻が施されています。
アイヌのクマ送りの儀式のように、イルカの魂を神の国へ送り届ける儀式に使われたのでなはいかとされています。
狩猟によって生活を維持する縄文人は、どうしても生きるものたちを殺生しなくてはなりません。
それは、現代の私たちも同じなのですが、そこには生きとし生きるものへの深い思いが感じられるのです。
後の時代の紀伊半島では、鯨(くじら)漁をする人たちは、クジラの供養のために卒塔婆を建て戒名を付けたりもしました。
~命をいただいて、自分の命にする~縄文人の生きとし生けるもへの深い思いはここでも継承されているのでした。
イルカやクジラは『万葉集』で枕詞(まくらことば)
またイルカやクジラについては、『万葉集』で「枕詞(まくらことば)」になっています
鯨魚(いさな)取り 近江(おうみ)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思う鳥立つ
『万葉集』巻2 153
(近江の海には、沖へ漕ぎ出す船、岸辺へ向かって漕いで来る船が、何隻も見られます。
ですが、どうかどの船を漕ぐ人も、櫂(かい)で強く水面をはねないでくださいね。
あのお方が思いを寄せた鳥とともに、飛び立ってしまいそうなので……)
この歌は天智天皇を偲ぶ倭姫(やまとひめ)皇后の歌です。
天智天皇の大津の宮があった琵琶湖のほとりで読まれた歌です。
「鯨魚(いさな)」は、クジラやイルカを指します。
「海」「浜」にかかる枕詞ですが、「クジラが取れる近江(おうみ)」は琵琶湖でないのは確かです。
つまり「鯨(いさな)取り近江(おうみ)」が、ここで生まれた枕言葉でなく、別の場所で生まれた相当に古い日本語であったことが理解されます。
ひょっとすると「鯨(いさな)取り近江(おうみ)」は、縄文の真脇人が使っていた言葉かもしれませんね。